東北大学の学生さんたちといっしょに、以下のページをつくっています。実は8月くらいからプレオープンしていたのですが、準備の時間がなかなか取れなかったわけです。
瀬名秀明の課外ゼミ[flight]+東北大学キャンパス散歩
座談会のテープ起こしから記事の作成、ウェブサイトの管理までぜんぶ私ひとりでやっているのでけっこうたいへん。
12月半ばくらいから本格稼働できるといいなあ……。
とはいえ、この活動は、参加者にとってあくまで「豊かな遊び」であるというスタンスを保持したいです。ゆったりとした気持ちで続けていきたいと考えています。
システムそのものは国立情報学研究所の新井紀子さんたちが開発したNetCommons。
瀬名秀明がゆく!東北大学機械系 *毎週金曜日更新
Science Pot 中学生と東大大学院生が科学を一緒に楽しむためのサイト
瀬名秀明の本棚β *著作一覧はこちら
瀬名秀明の課外ゼミ[flight]+東北大学キャンパス散歩
2007年11月24日
2007年10月28日
「瀬名秀明がゆく!」新企画のご案内
東北大学のウェブサイト「瀬名秀明がゆく! 東北大学機械系」で、新企画を始動します。ご応募お待ちしています。
以下転載。
【新企画のご案内】
「瀬名秀明がゆく!」に新企画が誕生します。開始はシリーズ23からを予定しております。
有志高校生を全国より募り、瀬名特任教授が一緒に東北大学機械系を取材し、その様子を掲載します。
様々な研究室を見学し、最先端の研究に参加できる可能性があります。
【募集内容・応募方法】
<募集内容>取材に同行してくれる高校生(大学生・一般の方も可!)を全国より募集します。
<応募方法>まず当ホームページの「ご意見・ご感想フォーム」からお気軽にメールをお寄せ下さい。
折り返し詳細情報をお送り申し上げます。参加は自由です。
以下転載。
【新企画のご案内】
「瀬名秀明がゆく!」に新企画が誕生します。開始はシリーズ23からを予定しております。
有志高校生を全国より募り、瀬名特任教授が一緒に東北大学機械系を取材し、その様子を掲載します。
様々な研究室を見学し、最先端の研究に参加できる可能性があります。
【募集内容・応募方法】
<募集内容>取材に同行してくれる高校生(大学生・一般の方も可!)を全国より募集します。
<応募方法>まず当ホームページの「ご意見・ご感想フォーム」からお気軽にメールをお寄せ下さい。
折り返し詳細情報をお送り申し上げます。参加は自由です。
2007年10月14日
秘書募集のお知らせ
瀬名秀明特任教授秘書募集
資格:ホームページ作成ができる方
勤務:週3日程度、勤務時間は応相談
勤務内容:ホームページ作成、取材補佐、秘書業務全般
待遇:時給811〜1113円、大学規定による
応募:10月31日(水)迄、履歴書郵送
書類選考後追って面接連絡
〒980-0845 青葉区荒巻字青葉6-6-01
東北大学機械系広報推進室 電話022-795-4043
本日、河北新報に同様の求人広告を掲載しました。『ハローワーク』にも掲載予定です。
どうぞよろしくお願いいたします。ご応募お待ちしております。
*お問い合わせは、上記の東北大学機械系広報推進室まで。
資格:ホームページ作成ができる方
勤務:週3日程度、勤務時間は応相談
勤務内容:ホームページ作成、取材補佐、秘書業務全般
待遇:時給811〜1113円、大学規定による
応募:10月31日(水)迄、履歴書郵送
書類選考後追って面接連絡
〒980-0845 青葉区荒巻字青葉6-6-01
東北大学機械系広報推進室 電話022-795-4043
本日、河北新報に同様の求人広告を掲載しました。『ハローワーク』にも掲載予定です。
どうぞよろしくお願いいたします。ご応募お待ちしております。
*お問い合わせは、上記の東北大学機械系広報推進室まで。
2007年10月05日
PaPeRoアプリケーションチャレンジ in 東北
【審査員】「PaPeRoアプリケーションチャレンジ in 東北」/応募期間:2007.10.4-2007.10.22/審査員
ご応募お待ちしています。しかしPaPeRoはかわいい。たんにドラえもんに似ているから萌えているだけかもしれないが。
「仙台PaPeRoセンター」で、実物のPaPeRoと遊べます。
ご応募お待ちしています。しかしPaPeRoはかわいい。たんにドラえもんに似ているから萌えているだけかもしれないが。
「仙台PaPeRoセンター」で、実物のPaPeRoと遊べます。
2007年08月29日
2007年07月10日
Second Life内「脳と想像力」 トークライブ
Second Life内「脳と想像力」 トークライブ
公式ページにはまだ知らせが出ていない。というかもう1カ月くらい更新されていないよ……。
公式ページにはまだ知らせが出ていない。というかもう1カ月くらい更新されていないよ……。
2007年07月07日
本をまとめて置いておく
適当ですが、こんな感じでAmazon.co.jpの「瀬名秀明の書店β」をつくりました。
2007年06月17日
ポートレイト
2007年05月25日
仙台ジュンク堂で「瀬名秀明書店」開店
両店舗の地図はこちら。自然科学書が充実している仙台店のほうが私の本の売れ行きはよいとのことで、ありがたくも2店舗での展開となります。私の既刊書の他、私のおすすめ本も一緒に並ぶ予定。仙台駅からすぐ近くなので、ぜひお立ち寄り下さい。
2007年05月24日
2007年04月11日
『虹の天象儀』続映中
2007年02月07日
これからの講演
【講演】多賀城市立多賀城中学校/2006.2.27(火)14:00-15:30/「薬学と小説」
【パネルディスカッションコーディネータ】社会で育つ脳と心II これがロボット学と脳科学の最前線!/2007.3.3(土)13:00-17:00/加藤元一郎、開一夫、 石井加代子、國吉康夫、 川合伸幸、瀬名秀明、柴田智広「パネルディスカッション」/けいはんなプラザ大会議室「ナイル」
【シンポジウム】未来を拓く人文・社会科学/2007.3.9(金)13:30-18:00/第1日目「イノチのゆらぎとゆらめき」/大上泰弘・瀬名秀明・野地澄晴・林良博/人文・社会科学振興プロジェクト研究事業/大手町サンケイプラザホール
【パネルディスカッションコーディネータ】社会で育つ脳と心II これがロボット学と脳科学の最前線!/2007.3.3(土)13:00-17:00/加藤元一郎、開一夫、 石井加代子、國吉康夫、 川合伸幸、瀬名秀明、柴田智広「パネルディスカッション」/けいはんなプラザ大会議室「ナイル」
【シンポジウム】未来を拓く人文・社会科学/2007.3.9(金)13:30-18:00/第1日目「イノチのゆらぎとゆらめき」/大上泰弘・瀬名秀明・野地澄晴・林良博/人文・社会科学振興プロジェクト研究事業/大手町サンケイプラザホール
2006年12月24日
これからの講演
【講演】第19回バイオエンジニアリング講演会/2007.1.8(月)14:45-15:45/「バイオエンジニアリングと未来の物語」/仙台国際センター・大ホール
【講演】日本福祉用具・生活支援用具協会 平成19年新年賀詞交歓会〜創立10周年記念講演会〜/2007.1.23(火)10:30-11:45/「おとぎの国の生活支援」/LEVEL XXI(レベル21)東京會舘
【講演】日本福祉用具・生活支援用具協会 平成19年新年賀詞交歓会〜創立10周年記念講演会〜/2007.1.23(火)10:30-11:45/「おとぎの国の生活支援」/LEVEL XXI(レベル21)東京會舘
2006年12月13日
プラネタリウム番組「虹の天象儀」新情報
2006年12月04日
これからの講演
これからの出演と講演
【ラジオ出演】「サイエンス サイトーク」/TBSラジオ/2006.12.10(日)21:00-21:30の予定/日垣隆、有村美香、瀬名秀明「科学の面白さを伝える」 *ポッドキャストでも視聴できます。
【トーク&サイン会】仙台文学館/2006.12.17(日)13:30-15:00/「科学と小説の翼を持って」/「読書サロン 仙台の作家たち」2006.11.18(土)から2006.12.27(水) *トーク&サイン会は無料・申し込み不要です。
【パネルトーク】今年のロボット大賞表彰式・記念シンポジウム/2006.12.21(木)14:00-16:30/TEPIAホール *「今年のロボット大賞」ウェブサイトから参加申し込みができます。
【ラジオ出演】「サイエンス サイトーク」/TBSラジオ/2006.12.10(日)21:00-21:30の予定/日垣隆、有村美香、瀬名秀明「科学の面白さを伝える」 *ポッドキャストでも視聴できます。
【トーク&サイン会】仙台文学館/2006.12.17(日)13:30-15:00/「科学と小説の翼を持って」/「読書サロン 仙台の作家たち」2006.11.18(土)から2006.12.27(水) *トーク&サイン会は無料・申し込み不要です。
【パネルトーク】今年のロボット大賞表彰式・記念シンポジウム/2006.12.21(木)14:00-16:30/TEPIAホール *「今年のロボット大賞」ウェブサイトから参加申し込みができます。
2006年11月24日
〈境界知〉1
『境界知のダイナミズム』がどんな内容なのかを示すために、冒頭部分をここに掲載しておきたいと思う(校正前の原稿なので、書籍版とは若干異なっている可能性もある)。
おそらくこの願いは叶わないだろうし、他のふたりの共著者とは何の関係もない個人的な希望に過ぎないのだが、ぜひこの本はSFファンの人に読んでもらいたいと思う。特に、瀬名秀明の小説に対して違和感を持っている人たちに。
なぜ瀬名の小説に違和感を持つのか。あなたの持つその違和感こそが、本当に人間らしい、優れた知のあり方なのだ、ということを私は伝えたいと思っている。たぶんそれは難しいだろう。このような考え方は、従来のSFの価値観とまったく相容れないことだからだ。
私はこの本を書いたことで、SFというものに対して、ようやくひとつの意見表明ができたと考えている。おそらくは無視されるだろう。そして無視するという能力もまた、人間の素晴らしい知のあり方なのである。無視という行為を私は決して否定しない。だがさらに素晴らしいのは、人間の知がそれだけに留まらないということだ。
この本は私にとっての「シャドウ・ライン」となったが、たとえひとりでもいい、誰かにとっての新たな心の門出となり得たら嬉しい。
序章 〈境界知〉を見出すまで
●どうしてそんな気分になったのか、ちっとも理由はわからない
翻訳家の宮脇孝雄が英語教材会社アルクのPR誌で、未訳の海外ペーパーバックを毎月取り上げ、その一部を原文で抜き出し試訳と共に紹介するというエッセイを連載している。数年前まで私(瀬名)は宮脇の連載だけを目当てにこの雑誌を定期購読していた。
その中で特に印象深かった回がある。アメリカの作家ダン・シモンズの長篇小説『サマー・オブ・ナイト』(扶桑社ミステリー)を取り上げたときのものだ。ページに添えられていた恩田和幸の挿画と共に、ずっと私の心に残っていた。シモンズはインドのカルカッタを舞台にしたホラー長篇『カーリーの歌』やSFのモチーフを総ざらえする《ハイペリオン》シリーズなどのジャンル・エンターテインメント小説で実力を発揮し続けている作家だが、当時まだ日本ではわずかな数の作品しか邦訳されておらず、海外小説ファンの間で名を知られるのみの存在だった。そのシモンズの新作を、宮脇はエッセイでいちはやく取り上げたのだ。
『サマー・オブ・ナイト』の舞台は一九六〇年のイリノイ州の田舎町。まだ輝きを失わなかった時代のアメリカで、小学生生活最後の夏休みを過ごす少年たちが、学校に巣くった怪異の正体と戦うという物語だ。青春ホラー小説の定番といっていい筋立てであり、スティーヴン・キングやディーン・クーンツをはじめとして、アメリカの著名なホラー作家なら自分の子供時代の想い出と重ね合わせつつ、一度はこの手の小説を書いている。宮脇がエッセイの中で引用・試訳したのは死体が墓場から蘇って少年の前に姿を現す派手な場面だったが、すぐに宮脇は次のようにフォローしていた。
もちろん、こんな気味の悪い描写ばかり続くわけではなく、ダン・シモンズは、子どものころの夏休みの楽しさや悲哀も丁寧に描き込んでいる。例えば、子どもたちが集まって野球をするシーンがある。片方のチームのピッチャーは女の子で、いつもは男まさりだったのに、一一歳になったその夏は妙に勝手が違う。胸が大きくなって(たぶん初潮もあり)、男の子たちと遊ぶのにちぐはぐな感じを覚えているのだ。男の子たちも、それに気がついて、野球をしながら、ふと黙り込んでしまう。
[宮脇孝雄「今月のマスターピース5 Summer of Night」、「CAT」1992年8月号*]
このエッセイを読んで、私は無性に『サマー・オブ・ナイト』が読みたくなった。そして丸善へ出向いて原書のペーパーバックを購入したことを覚えている。結局その本を最後まで読み通すことはなかったが(なにしろ分厚かったので)、邦訳がついに出版されたときにはすぐさま求め、一気に読み切った。
実際のシーンを少し詳しく紹介してみよう。この時点ですでに少年たちは幾つかの奇怪な予兆を体験している。しかしそういったことは口に出さず、彼らはいままでの日常を取り戻そうとするかのように、摂氏三〇度以上の猛暑の中で、ただ草野球に熱中するのだ。彼らは自分たちの生活に少しずつ大人の世界が入り込んできていることを知っている。最初のチーム編成は、町の南側に住む金持ちの子と、北側の中低級層の子に分かれてしまった。彼らは一試合を終えるとメンバーを入れ替えて、また野球を続ける。しかしやがて何人か抜けてゆき、男女混成だった遊び仲間も、やがて女の子はリトル・リーグ級のピッチャー、ドナ・ルーひとりだけになる。
何度もメンバーを入れ替えたので、これでは誰がどちらのチームなのかわからない、とひとりがいい出し、一方のチームはシャツを脱ごうということになる。次々とメンバーは脱いでゆくのだが、やがてドナ・ルーの番になり、そこで主人公の少年デイルは突然気づくのだ。去年の夏まで彼女は胸も平らで、ぴったりとしたTシャツを着ていたのに、今年はゆったりとしたシャツを着て、急に乳房も目立つようになっていたのだということに。
ドナ・ルーが目に涙を浮かべ、気まずい雰囲気が流れる。そして彼女は一言も発することなく、その場から立ち去ってしまうのである。デイルにとって、それは世界が変わってしまう瞬間だった。
ローレンスは事情がよくわからないまま、けげんな顔でみんなを見わたす。「試合は終わり?」
デイルの横にいたマイクが立ちあがってTシャツを着た。「そうだよ」そういう声は疲れたような嫌悪に満ちている。「もう終わったんだ」自分のミットとバットとボールをまとめると、彼はデイルの家の裏庭のフェンスのほうへ消えて行った。
デイルは席を立てなかった。こんな気分は初めてだ。興奮と悲しみがないまぜになったみたいで、息苦しいような妙な感情だった。と同時に、なにか、悔やんでもとりかえしのつかない重大なことが起きたことを彼は感じていた──ローレンスのみならず、デイルも直接に手をくだしたわけではない──ただ、それは秋がきたときのように、ものごとの終幕を感じさせるものだ。八月になって、オールド・セトラーズ@共進会@{ルビ:フェア}も幕をおろして移動してゆくと、そのあとにはまたぞろ恐ろしい新学期しかないという、あの感じとよく似ている。デイルはちょっぴり笑いだしたいような、それでいて手放しで泣きたいような気分になった。しかも、どうしてそんな気分になったのか、ちっとも理由はわからないのだ。[田中一江訳]
いまでも私はシモンズの小説の中で『サマー・オブ・ナイト』がいちばん好きだ。しかしこの小説についてまず思い出すのは、ストーリーでもなければキャラクターでもない、宮脇が紹介したこの野球のシーンなのである。たぶん私は『サマー・オブ・ナイト』を読む前に、宮脇のエッセイによって心を奪われていたのだろう。
本書のテーマは〈境界知〉である。これは私たち筆者三人が頭を寄せ合ってつくった、新しい言葉だ。いくらかの先例はあるだろうが、ほとんど馴染みのない言葉だと思う。これからこの〈境界知〉が何であるかを示し、論じてゆこう。本書の冒頭を小説の紹介から始めたのにもわけがある。〈境界知〉が私たちの中で起ち現れる瞬間の鮮やかな感覚を、ほんの数例でもいい、小説作品を通してあらかじめ読者の皆様と共有しておきたいと思ったのだ。
『サマー・オブ・ナイト』で書かれているこの喪失感の正体は何なのだろうか。周囲の景色は何も変わっていない。一緒に野球をしている仲間たちも、足で踏みしめているグラウンドも、空の青さも、昨日までと何も変わりはしない。しかし主人公はそれまで感じなかった喪失感を確かに覚え、何もわからずに暮らしていたいままでとはすべてが変わってしまったのだと悟っている。「ちょっぴり笑いだしたいような、それでいて手放しで泣きたいような気分」だとデイルは感じているが、それでも「どうしてそんな気分になったのか、ちっとも理由はわからない」。理由がわからないのに、デイルは確かに以前と何かが違ってしまったと感じている。彼の心の中に「見えない境界」が生じたのである。
昨日までとは何かが決定的に変わってしまった、といった喪失感を、私たちは日常の中で経験することがある。昭和天皇崩御の日のようにじわじわと後から心を包み込んでくる時代の終焉感覚もあれば、9・11のテロをテレビの前で目の当たりにした瞬間のように、否応なく両肩をぐいと掴まれ、抗しようのない一直線のレールに座らされる暴力的感覚もあるだろう。脇道へ逃げる甘えなど赦されず、もはやある方向へ持っていかれるしかないという怖れと諦念である。『サマー・オブ・ナイト』で記された感覚には、確かにひとつの時代の終焉に対する喪失も含まれているだろう。作者のシモンズはこの物語を一九六〇年の夏に設定することで、輝いていたあのアメリカへの喪失感を読者に連想させようとしている。小説の随所に挿入されたジョン・F・ケネディの選挙戦の様子は、若い政治家へ希望を託したアメリカの精神と、その後の泥沼化したベトナム戦争を想起させずにはおかない。つまり少年たちの予兆と喪失感は、アメリカがおかしくなってゆく予兆と、古き良き時代への喪失感でもある。
少年たちの喪失感は、ドナ・ルーの性徴と子供社会のルールとの衝突によってもたらされる。それまで仲間だと思っていたドナ・ルーが、いつの間にか女性として成長しており、それが否応なしに顕在化してしまったということだ。デイルはドナ・ルーと自分との間に、つい先程までは決して感じることのなかった境界を見出している。自分と彼女は決定的に何かが違う存在なのだという事実を知り、大人の社会はその違いを曖昧にはさせないのだと知り、その重さを受け止めている。彼は小学六年生のその日、見えない境界を見出したことで、もう夏を過ぎれば自分も大人の一員となり、決して後へは戻れないのだと悟ったのである。
これはダン・シモンズが描いた架空の状況だが、おそらくは類似した喪失感を、多くの人は経験しているのではないか。例えば気心の知れた仲間と遊んでいるとき、ふとそのうちのひとりが真顔に戻り、「俺、大学に行こうと思っている。明日から勉強しないといけない」と呟くような瞬間である。
それを聞いた他の者たちは、昨日までと何かが完全に変わってしまったことに気づくだろう。もはや昨日には戻れない。仲間だと思っていた者が、実は大学に進学するような奴だったのだと知った瞬間、それまで一度として感じたことのなかった垣根が突然、彼らの間に生ずるのである。日常だと思っていた範囲内に、突然異質な感覚が入り込むのだ。宮脇孝雄がまさに「妙に勝手が違う」「ちぐはぐな感じ」と書いたように、それはある種の違和感なのである。彼らはこのやるせないような違和感を見出してしまったとき、日常と違和を分け隔てる「見えない境界」を意識することになる。その感覚は、もはやごまかすことができないのである。
このように、違和感の中には私たちの境界が潜んでいる。だが違和感を覚えることそのものによって、私たち自身はそれまでの日常とその瞬間の自分の間に境界を見出しているともいえるだろう。信頼していた日常があるからこそ、私たちはその中にふと「違和」を感じる。それまで信じていた日常の中から、何か違ったものが見えてしまうことで、私たちは新しい世界観へと足を踏み入れる。そこに違和や喪失という複雑な感情が生まれる。
日常と違和を隔てる境界は、自覚的に線引きできる場合もあるだろうが、『サマー・オブ・ナイト』のデイルが「ちっとも理由はわからない」といったように、もやもやとしてうまく規定できない場合も多いに違いない。しかし不思議だ。なぜ私たちは規定できないのだろうか。おそらく「違和」を感じるには私たちの中に日常という〈常識〉の感覚が前提として必要であり、その〈常識〉の範囲をきっちりと自覚できないことが多いからだろう。だからこそ「違和」は身を預け切っていた日常の中に不意に現れる。それはときとしてとても強く、鮮やかで、心にいつまでも残り忘れることのできないもどかしさである。
考えてみると私たちは、うまく言葉では表現できないこの「違和」の感覚に、多くのことを負っているのではないか。私たちは人とコミュニケートし、社会の中で暮らし、生きて死んでゆく中で、無数の「違和」の感覚と出逢っているに違いない。しかし私たちはデイルと同じく、なぜそのような気持ちが生じるのか知らずにいる。知らずにいるのに、私たちはさまざまな違和の感覚と共に何かを悟り、感じ、あるいは無意識のうちに判断して、それを行動へと移し替えてゆく。
一般論でいえば、もともとこの違和感は、動物が身の安全を察知するために獲得した警告システムのひとつなのだろう。しかしその感覚は人間にとって、単なる注意警告以上の豊かな意味を持っているように思われる。私たちは普段、世界を信じて世界を忘れている。違和という感覚は、信じているが故に忘れていたその世界を再び私たちに思い起こさせる。違和とは私たちの感覚を日常という世界に結びつけ、そして切り離すものだ。
違和という感覚を突き詰めることによって、私たち人間が持つ「知」の働きを新たな側面から捉え、科学の俎上に乗せることはできないだろうか。
おそらくこの願いは叶わないだろうし、他のふたりの共著者とは何の関係もない個人的な希望に過ぎないのだが、ぜひこの本はSFファンの人に読んでもらいたいと思う。特に、瀬名秀明の小説に対して違和感を持っている人たちに。
なぜ瀬名の小説に違和感を持つのか。あなたの持つその違和感こそが、本当に人間らしい、優れた知のあり方なのだ、ということを私は伝えたいと思っている。たぶんそれは難しいだろう。このような考え方は、従来のSFの価値観とまったく相容れないことだからだ。
私はこの本を書いたことで、SFというものに対して、ようやくひとつの意見表明ができたと考えている。おそらくは無視されるだろう。そして無視するという能力もまた、人間の素晴らしい知のあり方なのである。無視という行為を私は決して否定しない。だがさらに素晴らしいのは、人間の知がそれだけに留まらないということだ。
この本は私にとっての「シャドウ・ライン」となったが、たとえひとりでもいい、誰かにとっての新たな心の門出となり得たら嬉しい。
序章 〈境界知〉を見出すまで
●どうしてそんな気分になったのか、ちっとも理由はわからない
翻訳家の宮脇孝雄が英語教材会社アルクのPR誌で、未訳の海外ペーパーバックを毎月取り上げ、その一部を原文で抜き出し試訳と共に紹介するというエッセイを連載している。数年前まで私(瀬名)は宮脇の連載だけを目当てにこの雑誌を定期購読していた。
その中で特に印象深かった回がある。アメリカの作家ダン・シモンズの長篇小説『サマー・オブ・ナイト』(扶桑社ミステリー)を取り上げたときのものだ。ページに添えられていた恩田和幸の挿画と共に、ずっと私の心に残っていた。シモンズはインドのカルカッタを舞台にしたホラー長篇『カーリーの歌』やSFのモチーフを総ざらえする《ハイペリオン》シリーズなどのジャンル・エンターテインメント小説で実力を発揮し続けている作家だが、当時まだ日本ではわずかな数の作品しか邦訳されておらず、海外小説ファンの間で名を知られるのみの存在だった。そのシモンズの新作を、宮脇はエッセイでいちはやく取り上げたのだ。
『サマー・オブ・ナイト』の舞台は一九六〇年のイリノイ州の田舎町。まだ輝きを失わなかった時代のアメリカで、小学生生活最後の夏休みを過ごす少年たちが、学校に巣くった怪異の正体と戦うという物語だ。青春ホラー小説の定番といっていい筋立てであり、スティーヴン・キングやディーン・クーンツをはじめとして、アメリカの著名なホラー作家なら自分の子供時代の想い出と重ね合わせつつ、一度はこの手の小説を書いている。宮脇がエッセイの中で引用・試訳したのは死体が墓場から蘇って少年の前に姿を現す派手な場面だったが、すぐに宮脇は次のようにフォローしていた。
もちろん、こんな気味の悪い描写ばかり続くわけではなく、ダン・シモンズは、子どものころの夏休みの楽しさや悲哀も丁寧に描き込んでいる。例えば、子どもたちが集まって野球をするシーンがある。片方のチームのピッチャーは女の子で、いつもは男まさりだったのに、一一歳になったその夏は妙に勝手が違う。胸が大きくなって(たぶん初潮もあり)、男の子たちと遊ぶのにちぐはぐな感じを覚えているのだ。男の子たちも、それに気がついて、野球をしながら、ふと黙り込んでしまう。
[宮脇孝雄「今月のマスターピース5 Summer of Night」、「CAT」1992年8月号*]
このエッセイを読んで、私は無性に『サマー・オブ・ナイト』が読みたくなった。そして丸善へ出向いて原書のペーパーバックを購入したことを覚えている。結局その本を最後まで読み通すことはなかったが(なにしろ分厚かったので)、邦訳がついに出版されたときにはすぐさま求め、一気に読み切った。
実際のシーンを少し詳しく紹介してみよう。この時点ですでに少年たちは幾つかの奇怪な予兆を体験している。しかしそういったことは口に出さず、彼らはいままでの日常を取り戻そうとするかのように、摂氏三〇度以上の猛暑の中で、ただ草野球に熱中するのだ。彼らは自分たちの生活に少しずつ大人の世界が入り込んできていることを知っている。最初のチーム編成は、町の南側に住む金持ちの子と、北側の中低級層の子に分かれてしまった。彼らは一試合を終えるとメンバーを入れ替えて、また野球を続ける。しかしやがて何人か抜けてゆき、男女混成だった遊び仲間も、やがて女の子はリトル・リーグ級のピッチャー、ドナ・ルーひとりだけになる。
何度もメンバーを入れ替えたので、これでは誰がどちらのチームなのかわからない、とひとりがいい出し、一方のチームはシャツを脱ごうということになる。次々とメンバーは脱いでゆくのだが、やがてドナ・ルーの番になり、そこで主人公の少年デイルは突然気づくのだ。去年の夏まで彼女は胸も平らで、ぴったりとしたTシャツを着ていたのに、今年はゆったりとしたシャツを着て、急に乳房も目立つようになっていたのだということに。
ドナ・ルーが目に涙を浮かべ、気まずい雰囲気が流れる。そして彼女は一言も発することなく、その場から立ち去ってしまうのである。デイルにとって、それは世界が変わってしまう瞬間だった。
ローレンスは事情がよくわからないまま、けげんな顔でみんなを見わたす。「試合は終わり?」
デイルの横にいたマイクが立ちあがってTシャツを着た。「そうだよ」そういう声は疲れたような嫌悪に満ちている。「もう終わったんだ」自分のミットとバットとボールをまとめると、彼はデイルの家の裏庭のフェンスのほうへ消えて行った。
デイルは席を立てなかった。こんな気分は初めてだ。興奮と悲しみがないまぜになったみたいで、息苦しいような妙な感情だった。と同時に、なにか、悔やんでもとりかえしのつかない重大なことが起きたことを彼は感じていた──ローレンスのみならず、デイルも直接に手をくだしたわけではない──ただ、それは秋がきたときのように、ものごとの終幕を感じさせるものだ。八月になって、オールド・セトラーズ@共進会@{ルビ:フェア}も幕をおろして移動してゆくと、そのあとにはまたぞろ恐ろしい新学期しかないという、あの感じとよく似ている。デイルはちょっぴり笑いだしたいような、それでいて手放しで泣きたいような気分になった。しかも、どうしてそんな気分になったのか、ちっとも理由はわからないのだ。[田中一江訳]
いまでも私はシモンズの小説の中で『サマー・オブ・ナイト』がいちばん好きだ。しかしこの小説についてまず思い出すのは、ストーリーでもなければキャラクターでもない、宮脇が紹介したこの野球のシーンなのである。たぶん私は『サマー・オブ・ナイト』を読む前に、宮脇のエッセイによって心を奪われていたのだろう。
本書のテーマは〈境界知〉である。これは私たち筆者三人が頭を寄せ合ってつくった、新しい言葉だ。いくらかの先例はあるだろうが、ほとんど馴染みのない言葉だと思う。これからこの〈境界知〉が何であるかを示し、論じてゆこう。本書の冒頭を小説の紹介から始めたのにもわけがある。〈境界知〉が私たちの中で起ち現れる瞬間の鮮やかな感覚を、ほんの数例でもいい、小説作品を通してあらかじめ読者の皆様と共有しておきたいと思ったのだ。
『サマー・オブ・ナイト』で書かれているこの喪失感の正体は何なのだろうか。周囲の景色は何も変わっていない。一緒に野球をしている仲間たちも、足で踏みしめているグラウンドも、空の青さも、昨日までと何も変わりはしない。しかし主人公はそれまで感じなかった喪失感を確かに覚え、何もわからずに暮らしていたいままでとはすべてが変わってしまったのだと悟っている。「ちょっぴり笑いだしたいような、それでいて手放しで泣きたいような気分」だとデイルは感じているが、それでも「どうしてそんな気分になったのか、ちっとも理由はわからない」。理由がわからないのに、デイルは確かに以前と何かが違ってしまったと感じている。彼の心の中に「見えない境界」が生じたのである。
昨日までとは何かが決定的に変わってしまった、といった喪失感を、私たちは日常の中で経験することがある。昭和天皇崩御の日のようにじわじわと後から心を包み込んでくる時代の終焉感覚もあれば、9・11のテロをテレビの前で目の当たりにした瞬間のように、否応なく両肩をぐいと掴まれ、抗しようのない一直線のレールに座らされる暴力的感覚もあるだろう。脇道へ逃げる甘えなど赦されず、もはやある方向へ持っていかれるしかないという怖れと諦念である。『サマー・オブ・ナイト』で記された感覚には、確かにひとつの時代の終焉に対する喪失も含まれているだろう。作者のシモンズはこの物語を一九六〇年の夏に設定することで、輝いていたあのアメリカへの喪失感を読者に連想させようとしている。小説の随所に挿入されたジョン・F・ケネディの選挙戦の様子は、若い政治家へ希望を託したアメリカの精神と、その後の泥沼化したベトナム戦争を想起させずにはおかない。つまり少年たちの予兆と喪失感は、アメリカがおかしくなってゆく予兆と、古き良き時代への喪失感でもある。
少年たちの喪失感は、ドナ・ルーの性徴と子供社会のルールとの衝突によってもたらされる。それまで仲間だと思っていたドナ・ルーが、いつの間にか女性として成長しており、それが否応なしに顕在化してしまったということだ。デイルはドナ・ルーと自分との間に、つい先程までは決して感じることのなかった境界を見出している。自分と彼女は決定的に何かが違う存在なのだという事実を知り、大人の社会はその違いを曖昧にはさせないのだと知り、その重さを受け止めている。彼は小学六年生のその日、見えない境界を見出したことで、もう夏を過ぎれば自分も大人の一員となり、決して後へは戻れないのだと悟ったのである。
これはダン・シモンズが描いた架空の状況だが、おそらくは類似した喪失感を、多くの人は経験しているのではないか。例えば気心の知れた仲間と遊んでいるとき、ふとそのうちのひとりが真顔に戻り、「俺、大学に行こうと思っている。明日から勉強しないといけない」と呟くような瞬間である。
それを聞いた他の者たちは、昨日までと何かが完全に変わってしまったことに気づくだろう。もはや昨日には戻れない。仲間だと思っていた者が、実は大学に進学するような奴だったのだと知った瞬間、それまで一度として感じたことのなかった垣根が突然、彼らの間に生ずるのである。日常だと思っていた範囲内に、突然異質な感覚が入り込むのだ。宮脇孝雄がまさに「妙に勝手が違う」「ちぐはぐな感じ」と書いたように、それはある種の違和感なのである。彼らはこのやるせないような違和感を見出してしまったとき、日常と違和を分け隔てる「見えない境界」を意識することになる。その感覚は、もはやごまかすことができないのである。
このように、違和感の中には私たちの境界が潜んでいる。だが違和感を覚えることそのものによって、私たち自身はそれまでの日常とその瞬間の自分の間に境界を見出しているともいえるだろう。信頼していた日常があるからこそ、私たちはその中にふと「違和」を感じる。それまで信じていた日常の中から、何か違ったものが見えてしまうことで、私たちは新しい世界観へと足を踏み入れる。そこに違和や喪失という複雑な感情が生まれる。
日常と違和を隔てる境界は、自覚的に線引きできる場合もあるだろうが、『サマー・オブ・ナイト』のデイルが「ちっとも理由はわからない」といったように、もやもやとしてうまく規定できない場合も多いに違いない。しかし不思議だ。なぜ私たちは規定できないのだろうか。おそらく「違和」を感じるには私たちの中に日常という〈常識〉の感覚が前提として必要であり、その〈常識〉の範囲をきっちりと自覚できないことが多いからだろう。だからこそ「違和」は身を預け切っていた日常の中に不意に現れる。それはときとしてとても強く、鮮やかで、心にいつまでも残り忘れることのできないもどかしさである。
考えてみると私たちは、うまく言葉では表現できないこの「違和」の感覚に、多くのことを負っているのではないか。私たちは人とコミュニケートし、社会の中で暮らし、生きて死んでゆく中で、無数の「違和」の感覚と出逢っているに違いない。しかし私たちはデイルと同じく、なぜそのような気持ちが生じるのか知らずにいる。知らずにいるのに、私たちはさまざまな違和の感覚と共に何かを悟り、感じ、あるいは無意識のうちに判断して、それを行動へと移し替えてゆく。
一般論でいえば、もともとこの違和感は、動物が身の安全を察知するために獲得した警告システムのひとつなのだろう。しかしその感覚は人間にとって、単なる注意警告以上の豊かな意味を持っているように思われる。私たちは普段、世界を信じて世界を忘れている。違和という感覚は、信じているが故に忘れていたその世界を再び私たちに思い起こさせる。違和とは私たちの感覚を日常という世界に結びつけ、そして切り離すものだ。
違和という感覚を突き詰めることによって、私たち人間が持つ「知」の働きを新たな側面から捉え、科学の俎上に乗せることはできないだろうか。
2006年10月25日
講演
【出演】東北大学イノベーションフェア2006/2006.18(水)10:00-17:00/仙台国際センター
【講演】「「健康とくすり」市民講演会 「いのち」と「こころ」を守るクスリ」/2006.10.22(日)13:00-17:00/15:45-16:45「未来のクスリを考える 物語と薬学とヒトの心」/静岡県コンベンションアーツセンター(グランシップ)11階・風/参加費無料、ただし事前の申込必要。詳細はリンク先まで。
【講演】河合塾エンリッチ講座2006/2006.10.26(木)17:30-19:00/「100年後のアトムたちへ! ー理系と文系を超える想像力=創造力ー」/河合塾横浜校本館3N教室 *詳細は、河合塾横浜校のページから「実施イベント」→「100年後の鉄腕アトムたちへ!」
【講演】ロボットビジネスシンポジウム/2006.10.27(金)16:30-17:20/「ロボット共存社会と21世紀」/パシフィコ横浜会議センター5F
【講演】第13回医学図書館研究会・継続教育コース/2006.11.8(水)16:00-17:30/(タイトルなし)/東北大学金属研究所講堂
【講演】「「健康とくすり」市民講演会 「いのち」と「こころ」を守るクスリ」/2006.10.22(日)13:00-17:00/15:45-16:45「未来のクスリを考える 物語と薬学とヒトの心」/静岡県コンベンションアーツセンター(グランシップ)11階・風/参加費無料、ただし事前の申込必要。詳細はリンク先まで。
【講演】河合塾エンリッチ講座2006/2006.10.26(木)17:30-19:00/「100年後のアトムたちへ! ー理系と文系を超える想像力=創造力ー」/河合塾横浜校本館3N教室 *詳細は、河合塾横浜校のページから「実施イベント」→「100年後の鉄腕アトムたちへ!」
【講演】ロボットビジネスシンポジウム/2006.10.27(金)16:30-17:20/「ロボット共存社会と21世紀」/パシフィコ横浜会議センター5F
【講演】第13回医学図書館研究会・継続教育コース/2006.11.8(水)16:00-17:30/(タイトルなし)/東北大学金属研究所講堂
2006年07月03日
「ねんど DE アニメ」ワークショップ
【協力】「ねんど DE アニメ」ワークショップ/2006.8.18(金)2006.8.20(日)、いずれも10:00−16:00/東北大学工学部 創造工学センター/対象:小学生4年生〜中学生/定員20名/参加費無料/主催:フューチャー イノベーション フォーラム/共催:特定非営利活動法人CANVAS
CANVASフェローなので、会場の仲介などをお手伝い。
CANVASフェローなので、会場の仲介などをお手伝い。
2006年06月16日
これからの講演など
【審査員】第18回 知能ロボットコンテストフェスティバル2006/2006.6.25(日)/仙台市科学館
【トークセッション】東北大学サイエンスカフェ/2006.6.30(金)18:00-19:30/大隅典子×瀬名秀明「第11回 脳をつくる遺伝子レシピ!」/せんだいメディアテーク/入場無料/NPO法人 脳の世紀推進会議「世界脳週間2006」
【トークセッション】宇宙航空研究開発機構(JAXA)/JAXAシンポジウム2006〜宇宙航空最前線レポート〜/2006.7.4(火)17:00-20:30/北野宏明・瀬名秀明・立川敬二 進行役:的川泰宣「特別セッション 気鋭のイノベーターたちが語る 「イノベーションによる新時代創造〜宇宙活動におけるロボットの可能性〜」」19:30-20:30/よみうりホール(讀賣会館7階)/先着1000名・入場無料 *プレスリリース
【講演】東北大学機械系オープン講義2006/2006.7.26(水)9:30-16:30/「SFと機械工学」13:00-13:45/東北大学 工学部 共通第1講義室
【トークセッション】東北大学サイエンスカフェ/2006.6.30(金)18:00-19:30/大隅典子×瀬名秀明「第11回 脳をつくる遺伝子レシピ!」/せんだいメディアテーク/入場無料/NPO法人 脳の世紀推進会議「世界脳週間2006」
【トークセッション】宇宙航空研究開発機構(JAXA)/JAXAシンポジウム2006〜宇宙航空最前線レポート〜/2006.7.4(火)17:00-20:30/北野宏明・瀬名秀明・立川敬二 進行役:的川泰宣「特別セッション 気鋭のイノベーターたちが語る 「イノベーションによる新時代創造〜宇宙活動におけるロボットの可能性〜」」19:30-20:30/よみうりホール(讀賣会館7階)/先着1000名・入場無料 *プレスリリース
【講演】東北大学機械系オープン講義2006/2006.7.26(水)9:30-16:30/「SFと機械工学」13:00-13:45/東北大学 工学部 共通第1講義室
2006年05月27日
五月の科学
28日の櫻井さんとの公開セッションに向けて『御伽草子』を観ていたら、エドマンド・リーチのことが出てきてのけぞった。ちょうど岩波のノンフィクションのために読んでいたところだった。
立花隆ゼミのウェブサイトがリニューアルされ、イベント情報が詳しく掲載されたので、そちらにもリンクを張っておく。
当日はゼミの人たちがつくった冊子も販売するとのこと。
【公開セッション】『立花隆ゼミ・特別対談企画 瀬名秀明×櫻井圭記』開催のお知らせ/2006.5.28(日)13:30-15:30/東京大学本郷キャンパス工学部5号館1階51講義室/入場無料 →立花隆ゼミのウェブサイト「SCI サイ」からのお知らせページはこちら。
もうひとつ、朝日中学生ウィークリーのコミュニケーションサイト「朝中クラブ」で、「東大大学院生と科学を語ろう」という掲示板が昨日(26日)夕方からスタートしたのでお知らせ。東北大学特任教授になってから、以前よりも科学を伝えることについて考えてるようになって、ちょうどうまくコラボレーションが実現できた。楽しいものになるといいなと思っている。
立花隆ゼミのウェブサイトがリニューアルされ、イベント情報が詳しく掲載されたので、そちらにもリンクを張っておく。
当日はゼミの人たちがつくった冊子も販売するとのこと。
【公開セッション】『立花隆ゼミ・特別対談企画 瀬名秀明×櫻井圭記』開催のお知らせ/2006.5.28(日)13:30-15:30/東京大学本郷キャンパス工学部5号館1階51講義室/入場無料 →立花隆ゼミのウェブサイト「SCI サイ」からのお知らせページはこちら。
もうひとつ、朝日中学生ウィークリーのコミュニケーションサイト「朝中クラブ」で、「東大大学院生と科学を語ろう」という掲示板が昨日(26日)夕方からスタートしたのでお知らせ。東北大学特任教授になってから、以前よりも科学を伝えることについて考えてるようになって、ちょうどうまくコラボレーションが実現できた。楽しいものになるといいなと思っている。
