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2006年09月14日

ささやくミイラの謎

別件で検索していて、「アルフレッド・ヒッチコックと三人の探偵団シリーズ」のサイトを見つけた。
こちらが全巻紹介。おお、懐かしすぎる。アメリカにいたとき、このシリーズを貪り読んでいた。俺が持っていたのは30巻まで。
俺の英語は、いまだにこのシリーズの範囲内で止まっている。
posted by 瀬名秀明 at 16:10 | TrackBack(0) | 読んで書く、書いて読む | 更新情報をチェックする

2006年09月07日

感覚の運動

ようやく岩波書店の『〈境界知〉のダイナミズム』がかたちを成してきて、しかしそのためにまたも大幅に書き直さなければならないなと思いつつ、土曜日にVR学会で講演をするためのスライドをつくりながら、保坂和志の『小説の自由』を読んでいたのだった。
とにかくこのところ、まるで小説の原稿を書いていない。ひとつひとつノンフィクションの約束を片づけてゆくためには小説を後回しにしなければならなくて、『〈境界知〉のダイナミズム』の後にはもうひとつ科学ノンフィクションをやるから、今年はもう小説は一行も書けないかもしれない。ノンフィクションには怖ろしく時間がかかる。ということで鬱憤が溜まっているのだが、むしろ最近の方が小説について考えている。

『〈境界知〉のダイナミズム』は、違和感についての本だ。なぜこんなものを書こうと思ったかというと、前にも書いたと思うが、俺は多くの文芸編集者に対して、どうしても違和感しか持てないのである。なぜ彼らは俺とこんなに違うのか、ということを知りたかった。つまり文芸編集者とつきあうことで、俺は小説よりもノンフィクションを書かざるを得なくなったのだから皮肉である。いや、むろん、多くの読者や同業者も、俺に対しては違和感を持っているであろうことも容易に想像できる。では彼らの違和感の正体は何だろうか。
講演のためにスライドをつくっている、と書いたが、こんなことをする作家は俺の他に何人いるだろう。学会で講演する際には、事前に要旨を出さなければならない。講演の事前に要旨を書く作家は世の中にどのくらいいるだろう。こういったひとつひとつが違和感となって、記憶の積み重なりを成してゆくわけである。積み重なった記憶は質感の場をつくり、周囲に広がる諸々のデータ、つまり境界の陰を色濃くさせてゆく。俺は作家だからスライドなどつくらない、要旨など書かない、と突っぱねることもできるわけだが、そもそも違和感について興味を抱く人間はそういうわかりやすい解決策に違和を感ずるものだ。では小説は違和感をどのように書いているのだろう、と当然考えることになる。つまり俺は文芸編集者とつきあうことによって小説業界から離れ、結果として以前より数多く小説とそれについての本を読むようになった。

それで、ようやくいまになって、保坂和志を読んでいるわけだ。今度の『〈境界知〉のダイナミズム』は、保坂和志を読むような人にこそ読んでもらいたいな、と思うのだけれど、当の作者が読んでいなかったのだから読者に強要することはできない。たぶん俺の読者層と保坂の読者層はまるで重ならないだろう。しかしおそらく、考えていることはかなり似ていると俺自身は思う(それについての書き方や、規定の仕方は別であるけれども)。完璧に異なっているのはエンターテインメントに対する考え方で、俺には保坂が考えるようなことも実はエンターテインメントのひとつだという信念があって、だからストーリーに対する考え方も違う。似たようなことを考えていても、俺は「小説とはまずストーリーである」といいたくなる。

『おとぎの国の科学』所収のエッセイでも書いたが、俺は作家になってからほとんど図を書かなくなってしまった。つまり構成を図式化しなくなったということだ。これは文章にも表れる。『〈境界知〉のダイナミズム』で、他の研究者が書く文章の明晰さは、いまの俺にはないわけで、それがかえって新鮮でもある。
ただ、まったく構成しないかというとそうではない。俺はたぶん、講演をしながら構成している。スライドをつくる仕事はその意味で貴重だ。
それはそれとして、初めてKeynoteを使おうとして、いろいろ勝手がわからなくて、そんなことで時間を費やしてしまうのだった。
posted by 瀬名秀明 at 23:21 | TrackBack(0) | 読んで書く、書いて読む | 更新情報をチェックする

2006年09月01日

リー・ニコルズ復活!!??



締切前にAmazonをだらだらと検索しまくるのは悪い癖なのだが、こいつは驚愕。
クーンツのフランケンシュタインシリーズ第3巻の共著者に、リー・ニコルズの名前があるではないか! おお、これはどういうことだ。ニコルズさんよ、あなたは『戦慄のシャドウファイア』を書き終えた後、取材先のジャングルで恐竜に食われてしまったのではなかったか(笑)。蘇生したのか。素晴らしすぎる。
しかし本家AmazonにもBantamの公式サイトにもまだ情報が上がっていないなあ。ガセネタかもしれん(Amazonにアップされている事前情報はかなり当てにならない)。
というか、このクーンツのフランケンシュタインシリーズ、俺に超訳させてほしい。原著より面白くするからお願いだ。
posted by 瀬名秀明 at 00:03 | TrackBack(0) | 読んで書く、書いて読む | 更新情報をチェックする

2006年08月07日

A Fine Dark Line

 ジョー・R・ランズデールの『ダークライン』が文庫化されていたのでさっそく読んだ。原題はA Fine Dark Line。思春期に見出すさまざまな〈境界〉の恐ろしさ、やるせなさ、人間性と社会性を描いているという点で、コンラッドの『シャドウ・ライン』にも通じる。日本語のタイトルから漏れてしまったFineの語感がいい。それにしても元ホラー作家の書く思春期小説は、どうしてこうも素晴らしいのだろうね。クーンツの『闇の囁き』もシモンズの『サマー・オブ・ナイト』も本当に愛おしい小説だ(ただし世評の高いマキャモン『少年時代』だけは琴線に響かない)。ランズデールは幸福な作家だ。彼は後に『モンスター・ドライヴイン』を書き、バットマンを書き、ターザンを書いた。少年時代に全身で浴びた輝かしい物語を自ら受け継ぐことができた。

 ところで驚いたのは、『ダークライン』の一字一句すべてが俺の中へすんなり入り込み、「わかってしまう」という事実だった。そうか、現代のエンターテインメント小説はこんなにもわかりやすいものだったのか、と改めて知った。このところ昔の小説ばかり読んでいたためだろう。なにをいっているのかと思われるかもしれないが、読み手側が「わかってしまう」事実に、いまの俺は恐れを感じてしまう。科学ノンフィクションを読んでいて、すべての意味がわかることなどまずない。100年前の小説を読んでいて、すべてがわかってしまうことなどない。それなのになぜ現代の小説はわかってしまえるのだろう。なにかトリックがあるのではないか、とさえ感じてしまうわけだ。
 もちろんトリックはある。

 『地獄の黙示録』でカーツは最後に「Horror」と呟き、それを聞いた私たちは、カーツこそがもっとも人間性を獲得した人物であると知るわけだが、原作の『闇の奥』はその後が素晴らしい。主人公は文明社会に戻って行き、そこで生き続けてゆかなければならない。
 小説を読むことにも、ひとつのシャドウラインがあるのだろうと思う。その境界を見つけてしまった者は、もはや「私は活字中毒者です」などと呑気にいうことなどできない。それでも人は小説を読み、ときには書く側に回り、ときには評論する側になる。
 A Fine Dark LineのFineは「細い」と訳されている。この細さは、例えばときにThe Thin Red Lineのように、Thinと表現されることにもなるのだろう。だが両者の感覚は違う。刃のようなその細さは、強靱さでもある。わかりやすさとわかりにくさは、刃の両面である。
posted by 瀬名秀明 at 10:36 | TrackBack(0) | 読んで書く、書いて読む | 更新情報をチェックする

2006年07月29日

シャドウライン

 プライベートパイロットの実地訓練のため、カリフォルニア郊外へ行ってきた。平気で摂氏46°くらいになる場所で、連日のように山の向こうから入道雲のような煙が上がる。自然発火で山が燃えるのだ。
 プレソロワークスは何度かこなしたが、ファーストソロフライトまでは辿り着けず。まあ自分のペースで進めるつもりだ。今年中にもう一度訓練に行こうと思う。渡米中、ある人からメールでいただいた「飛行機の扱いスキルは終わりなしの世界ですから、今後安全に永く、ながく楽しむことではないでしょうか。」とのアドバイスをゆったりと受け容れたい。

 現地では仕事をしないと決めていたので、本が読めるかと思いネヴィル・シュートなどの飛行機小説をいくつか持っていったのだが、空いた時間はもっぱらテキスト類を読んでいたので実際にはあまり進まなかった。少し読んだ本といえば、エルストン・トレヴァーの『Flight of the Phoenix』くらいか。行き帰りの成田エクスプレスと旅客機の中ではジョーゼフ・コンラッドを読んだ。トレヴァーの小説は名作映画の原作だが、この作者ってアダム・ホールの別名だったのか。コンラッドは現在進行中のノンフィクション『〈境界知〉のダイナミズム』との絡みで。コンラッドの描く「ノーウェア」や「シャドウライン」にこのところ惹かれている。ケンイチやユウスケの問題意識を鮮明にするためには、いつか彼らをコンラッドと対峙させなければならないだろう(シリーズが続けばの話だが)。『〈境界知〉のダイナミズム』ではスタニスワフ・レムをコンラッドに結びつけたい。

 帰国後は東北大学機械系のオープン講義とオープンキャンパス。溜まっていたゲラ等の処理。雑誌「d/sign」で鈴木一誌さんとおこなった対談の原稿の直し。ものすごい分量がある。これは本当に面白い記事になっていると思うので、ぜひ多くの人に読んでほしいと願っている。
posted by 瀬名秀明 at 14:32 | TrackBack(0) | 読んで書く、書いて読む | 更新情報をチェックする

2006年06月24日

シリーズ東北大学100年物語

東北大学は来年100周年。
仙台放送でシリーズ企画が始まった。
仙台放送ホームページ」→「ニュース」→「シリーズ東北大学100年物語」で映像が見られる。第一回は、日本初のジェットエンジン「ネ20」と流体研を紹介。
瀬名の回も7月に放送予定。
posted by 瀬名秀明 at 15:31 | TrackBack(0) | 読んで書く、書いて読む | 更新情報をチェックする

2006年06月13日

その他の物語その他の物語

なんかこのブログに書けることって少なくなってきたな。ブログじゃない形式に戻そうかな。
法月さんとの対談の原稿を読み返しつつ、ジーン・ウルフ『デス博士の島その他の物語』を。短篇「デス博士の島その他の物語」は、作家が自分を癒し、かつ勇気づける小説なのだと俺は読んでいる。作家が少年時代の自分へ「きみ」と呼びかけ、現在の技量を信じて過去の自分に物語を解き放つ。そうすることで作家は自分を取り戻す。でも作家は人間だから、脳内でつくったメタフィクションに自分を取り入れてしまうと、自己参照の無限退行が始まる。なので「その他の物語その他の物語」。読者は物語を読むことでひとりの作家の心を無意識のうちに感じ取り、無意識のうちに作家の内部へと同調し、物語のフレームの中に入る。ふつう、読者は小説を「読む」けれど、だから本作に限って読者は「まるで書くように小説を読む」という体験をすることになる。実際、俺は自分の手が動くような感覚を(読みながら)覚える。このループから抜け出すのも、浸るのも、抜け出したと思い込みながら物語の中を生きるのも、読者と物語の関係なんだろう。
まあ、自分の読みが正しいとも思わないし、間違っているとも思わないし、誰かより優れているとか劣っているとも思わない。たぶん読みは浅いだろうし、この程度のことは大勢の人がいっていることだろう。
どうしてジーン・ウルフは最初のこの短篇で、「death」という単語を選んだんだろう。そこはよくわからない。
posted by 瀬名秀明 at 00:05 | TrackBack(0) | 読んで書く、書いて読む | 更新情報をチェックする

2006年05月25日

ぼくらのロボット物語

岩波書店「フォーラム共通知をひらく」の原稿を黙々と書いている。俺のノンフィクションの最高傑作になるという予感があるが、一行書くために一冊本を読んでいるようなものなので、ぜんぜん終わらない(泣)。
しかしこの過程でジョーゼフ・コンラッドに興味が出てきたのは、自分としても歓迎したい傾向である。

日本のロボット学の父と呼ばれた早稲田大学の故・加藤一郎教授が登場する絵本の第3稿を送る。すでにイラストのラフもいただいていて、これが実に素晴らしい。やっぱり絵が出てくるのは嬉しい。
ただし刊行されるのはまだずっと先の話。

【講義】人間教育講座/2006.6.2(金)18:15-19:45/慶應義塾大学日吉キャンパス
【講演】NECブロードバンドソリューションセンター/2006.5.17(水)13:30-14:30
posted by 瀬名秀明 at 02:01 | TrackBack(0) | 読んで書く、書いて読む | 更新情報をチェックする

2006年05月16日

名探偵の一回性の人生

法月綸太郎さんと円堂都司昭さんから、『デカルトの密室』『第九の日』に関してインタビューを受ける。クイーンの操りと自由意志問題、デカルトとスピノザ、ダマシオとドーキンス、キリスト教とチェスタトン、ジーン・ウルフとグレッグ・イーガン等々、話題も広がって、とても充実した対話だった。こちらもこれを機会にとばかりに法月さんの小説についていろいろと尋ねてしまう。『ふたたび赤い悪夢』における「勇気」、『二の悲劇』における「物語」というキーワードの意味が自分の中で立ち上がってきた感じ。ありがとうございました。
対話の内容は探偵小説研究会の同人雑誌として、夏のコミケ等で販売される予定とのこと。
posted by 瀬名秀明 at 07:57 | TrackBack(0) | 読んで書く、書いて読む | 更新情報をチェックする

2006年05月08日

中学生に科学書をオススメする

自分用のメモとして。
「中学生はこれを読め」 書店主が推薦リスト、全国波及」とそのリスト

4月から朝日中学生ウィークリーで科学書の書評欄を担当し始めたので、中学生向けの科学書を意識的に読んでいる。選定が難しいのだが、改めていろいろ読み返すと、中学生の頃の記憶が蘇ってくる感じ。
「よりみちパン!セ」はGW中に何冊か読んだが、面白いね。岩波ジュニア新書が高校生を主な対象として書かれていることも初めて知ったのであった。
この書評シリーズでは連動してちょっと新しい試みもできそうなので楽しみ。

旺文社の蛍雪臨時増刊編集部から連絡が来て知ったのだが、なんと昨年の宮城大学の小論文試験に、俺の対談集が使われていた。うわー、なんだか無性に恥ずかしいのだが。
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2006年05月07日

『イノセンス』俺的解釈

BSアニメ夜話が無事放送された模様。自分の出演番組は見ないので、どんな感じになったのかよくわからない。俺はTVでしゃべるのが苦手なので、たぶんいっていることのほとんどは視聴者に伝わっていないと思う。
岡田斗司夫さんが『イノセンス』=寅さん説を唱えていて、さすがに説明が巧いなあと思ったのだけれど、後でわかったことだが『イノセンス』のストーリーそのものを理解していない人がかなり多いので、このくらいわかりやすく喋らないとだめだということなのだ。でも寅さんの映画を本当に観た人ってどのくらいいる? 
で、さらに思ったのだが、寅さん説でストーリーがわかったとして、それで『イノセンス』が面白くなるのだろうか。俺にはよくわからないよ。

最近は言外で匂わせる発言がまったく通用しないようなので、俺が喋りたかったことをここでもう一度記してみる。『イノセンス』は、人間の主観というものがつくり出す違和感を、意識的であれ無意識的であれ、映像に落とし込むことに成功した希有な作品だと思う。ストーリーはぼろぼろなので、あまりそこにこだわる必要はない。
なぜ主観の映画か。一作目と『イノセンス』を比べればすぐにわかる。一作目では、電脳世界の主観映像がまったく描かれていなかった。電脳が作品の中心的世界観なのに、電脳内の出来事はすべて台詞のみによって語られ、描写されることはなかった。だから一作目は成功していた。
ところが『イノセンス』ではバトーの主観シーンが大量に登場する。予告編を最初に観たとき、俺はこのことにびっくりして、なぜ押井守監督がそんなことをしたのか不思議でならなかった。実際に映画を観てさらに驚いたのだが、こんなに背景が気になる映画はない。どのくらいキャラクターと背景が馴染んでいるか、常に吟味しながら観なければならない。択捉のシーンが綺麗だという感想が多いようだが、俺には単に綺麗な映像だとはとても思えない。山車の動き、それと人物の重ね合わせ、カオスというよりはすべてに違和感がある。そしてバトーがコンビニでハッキングされるシーンを観てしまうと、今度はどんな場面でも、いまは主観描写なのか客観描写なのかが気になって、背景との馴染み具合に気を取られる。
違和感とは、私たち人間が主観的に感じる、言葉にできない居心地の悪さである。これは作家の役目を放棄した定義ではない。辞書にそのように書かれていることだ。私たちは『イノセンス』を観ることで、己の主観を否応なしに感じるのである。これはおそらく他の動物では感ずることが難しい、人間ならではの心的作用である(この意味で俺はイヌと子供を重ね合わせる本作のテーマには無理があると思う)。ともあれ私たちは『イノセンス』を観ることによって「人間になる」のである。押井監督がどこまでそれを自覚していたか知らないが、そういうことなのである。

主観の映画だと考えると、この映画で登場人物がやたらに過去の箴言を引用していることの意味もわかる。私たちはいわくいいがたい気持ち(切なさや違和感)を何とか表現したいと思う。だが一言ではいい表せない。むりやり一言で表すために、バトーたちは他者の言葉を引用するのである。しかしこれは所詮主観的引用であるから、引用文をどのように解釈したかは相手に伝わらない。バトーたちはただ引用を呟くのみで、そこには引用文を介したコミュニケーションしか発生しない。
この映画を覆い尽くす「チャイニーズ・ゴシック」の意味もかわってくる。ゴシックとは、人間の主観に最大限に働きかけるよう発展したキリスト教芸術である。宗教改革に対抗した芸術であるから、教会に来た人が直裁的にキリストの奇跡を感じるような構図を見せつけるのである。バトーがキムの館に行ったとき、青空に白い鳥が舞うシーンが出てくる。カメラが徐々に引いてゆくと、それは天上と壁に描かれた絵画であることがわかってくる。あのシーンこそ、主観に訴えかけるゴシック芸術の端的な例であろう。

しかし、俺が惜しいと思う部分がある。それは押井監督が、ストーリーのクライマックスで、安直にキリスト教的世界観を導入してしまっていることだ。なぜ素子は上から助けに来るのだろう。もちろん、ここはストーリーの中でもっとも燃えるシーンであり、わかりやすい大見得が必要とされるシーンである。しかしそれにしても上から「降臨」してくるのはわかりやすすぎないか。他の部分はあんなに難解につくっておきながら、なぜここだけ安直なキリスト教イメージに依存するのか。一作目の映画でも同様のことを押井監督はやっていて、ちょっとがっかりする。
つまり「チャイニーズ・ゴシック」の「チャイニーズ」の部分が突き詰められていないのである。日本でつくられた『イノセンス』は、大見得を切るべき部分で西洋の価値観に依存してはならなかったのではないか、というのが俺の感想なのである。俺は以前、「イノセンス、それは〈日本〉の喪失」というエッセイを書いたことがあるが、そこで述べていたのはそういうことである。

さて、これは違和感の映画だと述べた。現在のロボット・人工知能研究の現場では、コンピュータに違和感を持たせることなどまだまだの状態である。ロボットは違和感を感じない。しかし人間なら感じるだろう。そしておそらく、サイボーグも感じることができるだろう。バトーの悲哀は、いわくいいがたいものである。ならばこれはサイボーグの映画であり、同時に人間の映画なのである。認知心理学の知見に照らしても、人間は喜怒哀楽のような単純な感情から始まって、社会性の獲得と共により複雑な感情を得てゆく。バトーの素子への思いは、社会性を背景に持つ複雑な感情なのである。ならばあれほどコミュニケーションが空疎に見える『イノセンス』の世界にも、社会が存在することになる。私たちはだからこそバトーの思いを知ることができる。
『イノセンス』は違和感の映画であり、人間の映画である。独りよがりの映画だ、という否定的意見も多いようだが、主観の映画だからひとりよがりであるのは当然なのだ。『イノセンス』は、監督も、観客も、どちらもひとりよがりにならざるを得ない映画なのである。
posted by 瀬名秀明 at 13:03 | TrackBack(2) | 読んで書く、書いて読む | 更新情報をチェックする

これは××ではない

すっかり忘れていたが、今年は俺が「今後5年間、『これはSFではない』というのをやめよう」とSFセミナーで話してから5年目なのだそうだ。
俺の小説はずっと、「これはSFではない」といわれてきた。
『デカルトの密室』を出したら、今度は「これはミステリーではない」といわれた。
そしてすぐに、「これは小説ではない」といわれるようになった。
子供の頃から小説好きだった俺は、小学校の卒業文集に、将来の夢は「推理作家」と書いたものだが、まさか自分がこんなふうにいわれるようになるとは思っていなかった。子供の頃の自分に申し訳ないと思う。
ここ数年は、「瀬名秀明は小説家ではない」といわれている。
まあ、次はどのようにいわれるか、だいたい想像がつく。
「あいつは人間ではない」である。
そこまでいわれるような小説を書きたいものである。
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2006年04月25日

サイボーグの「衝撃」とは何か

NHK総合で、「立花隆が探るサイボーグの衝撃」。立花隆氏と押井守氏の噛み合わなさが逆に面白かった。こないだの「脳を活かす」研究会の様子が映し出されていたが、講演者の中で見事に俺の存在だけがオミットされていた。「義体」という言葉は押井守氏の発案ではないこととか、原作者の存在とか、ちゃんと俺が講演で話したのだけれど、そういった事実関係もすっ飛ばされていた。まあいま考えてみると、立花隆氏と別の立場であの場で話ができたことは貴重だったのかもしれない。
「脳を活かす」研究会での立花氏の発表で、俺がいちばん印象に残ったのは、彼が最後に「これからは四肢切断された人でも世界を滅亡させることができるようになった」と、喜々として喋っていたことだ。少なくとも俺には喜々としているように見えた。自分と立花氏の違いが明確になった。
立花氏は以前から超人への憧れが強い人だと俺は思っている。『宇宙からの帰還』や『臨死体験』における神秘体験への傾倒もそういう文脈でとらえるとわかりやすいし、今回サイボーグ技術へこんなに入れ込んでいるのも、ちょうど彼の興味とぴったり合致したからだと考えることができる。そして彼は、軍事利用への危険性を人に問いかけるものの、自分では軍事利用の是非をいわない。おそらく彼にとって、人間の能力がどんどん拡大されてゆく世界は、とてもわくわくするような愕きに満ちた夢の世界なのだろうと思われる。ウェルズの描いたモロー博士の世界観と通じるものがある。しかし『モロー博士の島』のラストシーンを思い返した方がよい。
手が震える患者をBMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)技術で制御する研究など、確かに映像で見せられると衝撃的だ。しかし10人に治療して10人すべてにその効果が現れるわけでもないと聞く。テレビ番組は、ひとつの成功例を見せることで、その背後にある別の結果をキャンセルしてしまう。別の結果があるのだという可能性さえ、人々の考えから奪い去ってしまう。この恐ろしさを研究者たちは実感しているはずである。だからこそ「脳を活かす」研究会の席で、研究者たちはとても慎重な言葉を選んでいたように思えた。科学ジャーナリズムは、実はその恐ろしさとどのように向かい合ってゆくのかという覚悟でもあるはずなのだ。
ひとつ気をつけておかなければならないことだが、「脳を活かす」イコール「サイボーグ技術」であると思ってはならない。「脳を活かす」研究会でも、BMIやサイボーグ技術だけではなく別の分野にも目を向けてほしいと訴えた研究者が複数いた。まったくもってその通りであり、NHKが煽り立てるこの状況に、いかに冷静な視線を獲得できるかが今後の課題となる。ロボットはホンダのP2以来、10年かかってようやく現実の問題へと一般の人々の気持ちを繋げることができたように思う。これからサイボーグは同じ経緯を辿るのだろうか。
さて、先に紹介した立花氏の発言に対して、俺が考えることは、6月刊行のケンイチくんシリーズの書き下ろし短篇にすでに示した。身も心もぼろぼろになったロボット学者ユウスケは、自らの身体をサイボーグ化してゆくことになる。しかし彼はサイボーグであることには喜びを感じない。彼の喜びは、インターフェースそのものの中にある。ブレイン・マシン・インターフェースという言葉の、インターフェースの意味を、NHK番組視聴者はこれから考えてゆく必要に迫られているのである。
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2006年04月18日

チェーホフ三昧

チェーホフが44歳で亡くなっていたことに衝撃を受ける。俺はいま38だが、この歳にはもう『かもめ』や『ワーニャ伯父さん』を書いているではないか。50〜60歳くらいの作品かと思っていたよ。39歳には「犬を連れた奥さん」を書いている。いまさらだがチェーホフは凄すぎるということに気づいた。

現在入手可能なチェーホフ関連の映画を一気に観た。どれもこれも大傑作ではないか。
まずは中原俊監督の『櫻の園』(1990)を【amazon】。すみません、初見でした。これは確かに、一生大切にしたくなるような映画。脚本が見事。
続いてイオシフ・ヘイフィッツ監督・脚本の『小犬をつれた貴婦人』(1960、ソ連)【amazon】。実に味わい深い。ラストは原作のニュアンスの方が遙かに好きだけれど、そこに至るまでは風景描写の美しさも相まってまさに珠玉の出来映え。
ニキータ・ミハルコフ監督の『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』(1977、ソ連)【amazon】。原作は戯曲「イワーノフ」。原作は未読だが、たぶん台詞の言い回しや舞台設定も忠実に再現しているのだろうと思う。なので演劇的な台詞が多い。クライマックスの起爆力がなかなか。
エミーリ・ロチャヌー監督の『狩場の悲劇』(1978、ソ連)【amazon】。原作は同題の長篇だが未読。しかしこいつにはやられた。大傑作。後半のサスペンスの盛り上がりは半端ではない。いま売られているDVDは5.1chサラウンドで迫力も充分。
そしてクロード・ミレール監督の『リリィ』(2003、フランス)も超弩級の傑作【amazon】。これ、原作は『かもめ』なのだ。原作は演劇の世界が舞台なのだが、この映画では映画産業界に置き換えられていて、往年の大女優と、新進女優の激突がショービズの世界で繰り広げられる。大女優の息子で理想に燃える青年は、恋人のリリィを女優に使って自主映画を撮る。それを避暑地で皆に公開するが、酷評されて身も心もぼろぼろになる。恋人のリリィは恋人の青年を見捨てて、大女優の仕事上のパートナーである巨匠監督についてパリに上京してしまう。リリィは大ブレイク。夜な夜な自宅でパーティを繰り広げる。ここまでは原作にそれなりに近い。しかしその後の展開が凄まじい。夢敗れた青年は、数年後ついに映画監督としてデビューを果たし、あの避暑地の出来事を脚本化して、当時の人々を使って撮影してゆく。これは『スクリーム3』ですか? 原作の有名なラストシーンを途轍もない破壊力で映画に落とし込んだ監督と脚本家の手腕に呆然。
これからニキータ・ミハルコフ監督の『黒い瞳』(1987、イタリア)を観ます【amazon】。

しかしチェーホフの中短篇を何度も読み返して驚嘆したのだが、インテリの悲哀をこれほど巧く書く作家だったとは、正直思っていなかったよ。ある意味、理系小説の極北はチェーホフといってもいいのではないか。
それにしてもチェーホフをこんなに楽しんで読めるようになるとは。日々一歩ずつ生きてみるものである。
posted by 瀬名秀明 at 22:41 | TrackBack(0) | 読んで書く、書いて読む | 更新情報をチェックする

2006年04月08日

質的研究

昨日は東北大学の学生さんらと飲み会。たいへん美味しくお酒と刺身をいただきました。
ところでその席でいろいろと教えてもらったのが、「質的研究」。看護のような新しい学問分野では、一回性のエピソードがとても重要で、なかなかその切実さを科学の方法論に落とし込めない。なので昔から看護・保健の人たちはそれに悩んできた。そこで出てきたのが質的研究。Amazon.co.jpで検索してみると、この一年で山のように新刊が出ていて、勢いを感じさせる。たぶんこういう試みが21世紀の科学をつくりかえていくんだろう。
俺もちょっと勉強してみよう。どの本から読むのがいいんだろうか。

これからケンイチくんシリーズの新作に集中します……。
posted by 瀬名秀明 at 18:16 | TrackBack(0) | 読んで書く、書いて読む | 更新情報をチェックする

2006年04月02日

科学を「正義の味方」と勘違いしない

最近のニュース記事。
<セクハラ>脳科学の教授を免職処分へ 北海道大学

たくさんのポピュラーサイエンス本を書き、一般からの人気があった人物である。しかし90年代後半から少しずつおかしな発言が目立つようになっていった。一時期持ち直したようにも見えたが、こういうことになるとは思いもしなかった。
実は俺にもこの科学者との共著がある。拙書に寄稿していただいた原稿そのものは読みやすく、まとまりのあるもので、批判されるべきところはないはずだが、彼を共著者に迎え入れることを発案したのは俺であるから、監修者としての責任は俺にある。

この科学者は、俺が今度講演する「『脳を活かす』研究会」の発起人のひとりでもある。研究会のウェブサイトには、設立の趣旨として次のような文章がある。

最近の「脳文化人」の出現は後者のタイプの神経倫理学を現代社会が強く求めていることを示しています。しかしながら、俗説をあたかも脳科学の裏付けがあるかのようにマスコミに流すことは、社会と脳科学に対する背信となります。

設立者メンバーのリストを見て、さまざまな思いを抱く人もいるだろう。俺自身、ニセ科学の片棒を担ぐ要注意人物として批判されることもある。ミトコンドリアは決して人を襲ったりはしない。それをあたかも本当のことであるかのように書く俺は、科学の混迷を招く人物である、という批判だ。俺にはそういった言説に対して反論があるが、すでにさまざまなところで述べているのでここでは繰り返さない。重要なのは、脳科学についてきちんとした情報を流そうと努力する人々さえも、明日はニセ科学の人だと糾弾される可能性があるということである。そして科学はその可能性を許容しなければならない。科学とは自己批判への信頼である。要は、自己批判を大切に、ということだ。

俺は最近、科学を語る者は、ひとつの教訓を持たなければならないと思うようになってきた。その教訓とは、科学を「正義の味方」だと勘違いしない、ということだ。自分が科学の側にいると、つい自分は正しいのだと思い込んでしまう。科学を正義の味方だと思い込んでしまう。科学は正義でも悪でもない。あえていえば、科学の方法論が信頼できるというだけのことだ。もし自分が正義のつもりでいるような科学信奉者が実在するとしたら、それはまるで自分が世界の警察だと勘違いしているような国と同じである。おそらく彼が欲しているのは正義の権力と賞賛だけで、決して科学そのものではないのである。
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2006年04月01日

映画『ドラえもん のび太の恐竜2006』

 公式サイトはここ

 試写会に誘われたが、故あって出席せず、本日ひとりで近くの映画館で観てきた。
 1年休んでの、新体制での新生ドラえもん。これまでは併映作品がこまごまとついていたが、今回は『のび太の恐竜』ひとつきりである。監督はいわゆる「感動シリーズ」の渡辺歩、作画監督は『ハウル』の小西賢一、美術監督は『アリーテ姫』の西田稔。

 私は福冨博版の『のび太の恐竜』を、小学校を卒業した春に観た。サントラLPを買って、繰り返し聴いた。かつて筒井康隆のもとへ映画『時をかける少女』を最初から最後まで玄関先で演じて見せに来た男がいたそうだが、たぶん私は一時期まで、『のび太の恐竜』はすべてひとり芝居できただろう。『スター・ウォーズ』のファンにもそのくらいできる人が大勢いるだろう。私にとって福冨博はもっとも憧れの映画監督であった。

 さて、渡辺歩版の『のび太の恐竜』は、福冨が手書きアニメでおこなっていた回り込み演出をCGで置き換える。背景がぐるぐると回り込む演出は、のび太の時空を超えた旅のワクワク感を本当にうまく演出している。一方、描線には手書きの感覚が残っていて、のび太がアップで涙を流したりするとき、その手書きの感覚が画面に温かみを与えている。ピー助との最初の別れでは、子供たちが完璧に感情移入して洟をすすっていた。

 「あたたか〜い目のつもり」の場面に代表されるように、渡辺版はかなりギャグテイストを押し出している。ときどきちょっと行き過ぎかな、と思うところもあったのだが、割と子供たちは喜んでいた。一方、福冨が凄まじい迫力を見せつけたプテラノドン急襲シーンや、バギーチェイスから川下りのシーンは、今回あえてあっさりとつくられていて驚いた。やはりこのあたりは福冨版を超えることは難しいと判断されたのだろうか。ピー助の声の伸びは……、こればかりは最初に観た福冨版への思い入れが強くて、判断できない。

 今回の恐竜ハンターの声は船越英一郎が担当。ドルマンスタイン役が内海賢二。福冨版では恐竜ハンターが内海賢二で迫力があったが、船越もなかなか。ただし、今回、ドルマンスタインがあんまりカッコよくなかったのは残念だったかな。恐竜をムチで叩いたりして、非情ぶりを見せつけていたが、ちょっと違和感を持った。ドルマンスタインは単にスリルを楽しみたいだけの金持ちなのだから、こんなサディストぶりを見せつける必要はなかったはず。私は子供の頃、藤子作品らしからぬ恐竜ハンターとドルマンスタインに、割と悪役のカッコよさを感じていたので、その点は残念。(と思った後で公式サイトを見たら、大富豪のディーラーと書いてあった。ドルマンスタインはディーラーだったのか!?)

 驚いたのはクライマックス以降の展開である。ネタバラシになってしまうが、今回の映画では、のび太たちは大人の助けを最後まで借りないのである。これには驚いたし、困惑したし、感動もした。
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posted by 瀬名秀明 at 22:31 | TrackBack(3) | 読んで書く、書いて読む | 更新情報をチェックする

2006年03月20日

チェコだけで80ページ

……と表紙に謳われている雑誌「CUKR[ツックル]」の最新号が届く。いま定期購読している唯一の雑誌。とてもかわいい誌面で、かなり気に入っているのである。
今月号はカレル・チャペックの特集ではないか。カレルはちゃんと読んでみたい作家のひとり。小説選集もノンフィクションも、日本で読める本はほぼ揃えたのだが、まだあまり手をつけていない。
4月にチェコアニメ映画祭というのがあるのか。うーむ行ってみたい。

仕事漬けだが、あまり進んでいない。
posted by 瀬名秀明 at 12:43 | TrackBack(0) | 読んで書く、書いて読む | 更新情報をチェックする

2006年03月19日

○○離れ

ちょっと気になったので、Googleでヒット件数を調べてみた。

活字離れ 205,000
理科離れ 127,000
ゲーム離れ 72,000
読書離れ 46,900
ネット離れ 25,000
科学離れ 24,800
数学離れ 10,400
音楽離れ 9,150
スポーツ離れ 559
社会離れ 224
算数離れ 138
国語離れ 98
芸術離れ 64

日本人はいろんなものから離れていることである。
まあ理科から離れているような人は、たぶん活字からもゲームからも離れている。
posted by 瀬名秀明 at 18:55 | TrackBack(0) | 読んで書く、書いて読む | 更新情報をチェックする

2006年03月17日

525,600 minutes

いろいろばたばたしているこのごろ。
ケンイチくんシリーズ最新作のために、チェーホフを読み始めた。
おお、『RENT』がオリジナルキャストで映画になったのか。こないだNHKの『ブロードウェイの世紀』でも大きく取り上げられていたミュージカル。「Seasons of Love」はいつ聴いてもじーんとくるよねえ。
posted by 瀬名秀明 at 13:02 | TrackBack(0) | 読んで書く、書いて読む | 更新情報をチェックする