下のエントリーで、私は血迷ったことを書いてしまいました。申し訳ありません。
私がまず書かなければならなかったのは、何よりもご協力いただいたカフェ・サイファイティークの皆様や、5時間もの間ずっと喋り通しだった通訳の皆様、機材調整などにご協力いただきましたボランティアスタッフの皆様、この企画の場を与えていただきましたワールドコン実行委員会の皆様や日本SF作家クラブの皆様、そして多くの魅力的な企画がワールドコンでひしめくなか、足を運んでいただいた会場の皆様への感謝の言葉でした。遅れてしまいましたが、いまここに、心より御礼を申し上げます。企画進行中もこれら感謝の気持ちを一時とも忘れたつもりはありませんでしたが、いざ企画が終わり、いくつかの自分の不手際を知り、また思い直した時点で、ついネガティヴな言葉が出てしまったのでした。
12年前に『パラサイト・イヴ』でデビューしてからの、さまざまなことが想起されて、身体と心の制御がつかないまま文章を書いてしまったのでしょう。
今回の企画は、NTT出版様より刊行する予定でおります。まずは私がテープ起こしからはじめて、少しでもよい本にするようこれから努力したいと思います。
また不手際のあった部分は、これから少しでもフォローアップしてゆきたいと思います。自らの精進につとめますので、どうかご容赦下さい。
パネリストの皆様、特別ゲストの小松先生、パネル展示でご協力いただいた先生や、装置デモンストレーションのためにお出でいただいた皆様、皆様のおかげで5時間という長いシンポジウムを進めることができました。ご出演依頼に快くお返事をいただきましたこと、心から感謝を申し上げます。
本当にありがとうございました。
瀬名秀明がゆく!東北大学機械系 *毎週金曜日更新
Science Pot 中学生と東大大学院生が科学を一緒に楽しむためのサイト
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瀬名秀明の課外ゼミ[flight]+東北大学キャンパス散歩
2007年09月03日
2007年09月02日
ワールドコン企画ありがとうございました
ワールドコン企画にご参加いただきました皆様、ありがとうございました。またご協力いただきました皆様に感謝いたします。
私の力不足のゆえに、司会進行は不充分なものとなりました。ここで伏してお詫び申し上げます。私は研究者たちのパネルディスカッションに関してはそれなりの場数を踏み、どの司会者よりもよい司会ができると考えていました。しかしそれはうぬぼれでした。研究者の呼吸と作家の呼吸は、私が考える以上にはるかに異質なもので、それをコーディネートするのは難しいものでした。また私は研究者の皆様の時間配分を制御することはできず、現時点でウンターネット上には司会進行の手際の悪さを批判する声が出ております。また私の不手際ゆえに、海外作家の心証を害してしまいました。心からお詫びを申し上げます。もう私はSFとは関わりません。SF関係者の皆様に深くお詫びを申し上げます。しかしどうか海外作家の皆様は、日本を嫌いにならないでほしいのです。本来ならば作家という職業を辞してお詫びを申し上げるべきでしょう。私が全て間違っていました。申し訳ありませんでした。全ての皆様に心からお詫びを申し上げます。
許してはいただけないものと思います。本当に申し訳ありませんでした。心からお詫びを申し上げます。
私の力不足のゆえに、司会進行は不充分なものとなりました。ここで伏してお詫び申し上げます。私は研究者たちのパネルディスカッションに関してはそれなりの場数を踏み、どの司会者よりもよい司会ができると考えていました。しかしそれはうぬぼれでした。研究者の呼吸と作家の呼吸は、私が考える以上にはるかに異質なもので、それをコーディネートするのは難しいものでした。また私は研究者の皆様の時間配分を制御することはできず、現時点でウンターネット上には司会進行の手際の悪さを批判する声が出ております。また私の不手際ゆえに、海外作家の心証を害してしまいました。心からお詫びを申し上げます。もう私はSFとは関わりません。SF関係者の皆様に深くお詫びを申し上げます。しかしどうか海外作家の皆様は、日本を嫌いにならないでほしいのです。本来ならば作家という職業を辞してお詫びを申し上げるべきでしょう。私が全て間違っていました。申し訳ありませんでした。全ての皆様に心からお詫びを申し上げます。
許してはいただけないものと思います。本当に申し訳ありませんでした。心からお詫びを申し上げます。
2007年08月05日
奇蹟のベストセラー
本には帯がついていて、いろんな人がそこに推薦文を書いている。
いい推薦文とは、どのようなものだろうか。推薦文とは実際に書いてみると意外に難しいものだ。
たとえば、いま手元に一冊の本がある。その帯の裏には3人の書店員による推薦文が書かれている。
「子供にも、大人にも、とっておきの名作であること、まちがいナシ!」
「胸の奥のどこかに何かがジワジワとしみ込んでくる不思議な一冊です。」
「少年の成長が、感動を呼ぶ。心の琴線に触れる傑作です。」
こう並べてみて、いったいこれが何というタイトルの本かわかるだろうか。
自分でこう書いてみてちょっと驚くのだが、たぶんほとんどの人はさっぱりわからないような気がする。『バッテリー』? 『IWGP』? 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』? 青春小説? 恋愛小説? 歴史小説? それともノンフィクション? 誰かの伝記? それさえもわからない。なんだか少年が出てくるすべての物語に当てはまってしまいそうだ。
実は帯の表には、ある作家の推薦文も載っている。こちらは少し中身に踏み込んでいるけれど、でも内容を的確に表しているとは思えないのだった。というのも本の中身はその推薦文の勘どころと正反対の位置にあるような気がしたから。
私たちはたくさんの本を読む。しかし出てくる感想は、いつも似たようなものだ。後に残るものは、もしかしたら他の本と簡単に代替できてしまう程度のものなのかもしれない。
でもぴたりと決まった推薦文を見たとき、とても清々しくて嬉しい気持ちになる。その本が特別なものになったような気がする。
振り返って自分のことを考える。さて、自分はかけがえのない帯推薦文を書けているだろうか。
いい推薦文とは、どのようなものだろうか。推薦文とは実際に書いてみると意外に難しいものだ。
たとえば、いま手元に一冊の本がある。その帯の裏には3人の書店員による推薦文が書かれている。
「子供にも、大人にも、とっておきの名作であること、まちがいナシ!」
「胸の奥のどこかに何かがジワジワとしみ込んでくる不思議な一冊です。」
「少年の成長が、感動を呼ぶ。心の琴線に触れる傑作です。」
こう並べてみて、いったいこれが何というタイトルの本かわかるだろうか。
自分でこう書いてみてちょっと驚くのだが、たぶんほとんどの人はさっぱりわからないような気がする。『バッテリー』? 『IWGP』? 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』? 青春小説? 恋愛小説? 歴史小説? それともノンフィクション? 誰かの伝記? それさえもわからない。なんだか少年が出てくるすべての物語に当てはまってしまいそうだ。
実は帯の表には、ある作家の推薦文も載っている。こちらは少し中身に踏み込んでいるけれど、でも内容を的確に表しているとは思えないのだった。というのも本の中身はその推薦文の勘どころと正反対の位置にあるような気がしたから。
私たちはたくさんの本を読む。しかし出てくる感想は、いつも似たようなものだ。後に残るものは、もしかしたら他の本と簡単に代替できてしまう程度のものなのかもしれない。
でもぴたりと決まった推薦文を見たとき、とても清々しくて嬉しい気持ちになる。その本が特別なものになったような気がする。
振り返って自分のことを考える。さて、自分はかけがえのない帯推薦文を書けているだろうか。
2007年08月03日
サーバ移転おわりました
ということで更新。
東北大学オープンキャンパスは盛況。私もあちこち見て回った。皆さん、ありがとうございます。
しかし説明してくれる大学院生さんから、「学部生さんですか?」といわれ愕然とする。最近、白髪があまりに目立つようになったので、人生で初めて髪を染めたのが、さらに年齢不詳になった原因かもしれない。
「瀬名秀明がゆく!」のサイトは、今月から記事の見せ方も変えて、いくらかリニューアルする予定。これからは私自身が原稿を書きます。
大阪のココルームで、浴衣でトークしてみたら意外と好評だったので、これから夏の講演は浴衣でやっていきたい。しかし夏祭りに行く時間が取れない……。花火があちこちで上がっているというのに……。
仙台ジュンク堂の「瀬名秀明書店」はおかげさまで好評のようで、品切れになる本もいくつか出ているらしく、追加で搬入してもらっています。
十数年ぶりに『二重らせん』と『ヘラクレイトスの火』を読む。やっぱり『ヘラクレイトスの火』はいい。私にとって人生の書だよ。いまは絶版なのか。信じられん。
開高健とか発作的に読みたくなる。南の島へ行きたい。だが原稿を書くのだ!
東北大学オープンキャンパスは盛況。私もあちこち見て回った。皆さん、ありがとうございます。
しかし説明してくれる大学院生さんから、「学部生さんですか?」といわれ愕然とする。最近、白髪があまりに目立つようになったので、人生で初めて髪を染めたのが、さらに年齢不詳になった原因かもしれない。
「瀬名秀明がゆく!」のサイトは、今月から記事の見せ方も変えて、いくらかリニューアルする予定。これからは私自身が原稿を書きます。
大阪のココルームで、浴衣でトークしてみたら意外と好評だったので、これから夏の講演は浴衣でやっていきたい。しかし夏祭りに行く時間が取れない……。花火があちこちで上がっているというのに……。
仙台ジュンク堂の「瀬名秀明書店」はおかげさまで好評のようで、品切れになる本もいくつか出ているらしく、追加で搬入してもらっています。
十数年ぶりに『二重らせん』と『ヘラクレイトスの火』を読む。やっぱり『ヘラクレイトスの火』はいい。私にとって人生の書だよ。いまは絶版なのか。信じられん。
開高健とか発作的に読みたくなる。南の島へ行きたい。だが原稿を書くのだ!
2007年07月14日
ふりむけばミトコンドリア
という歌がNHK「おかあさんといっしょ」で流れたのは、もう6年前。
2000年に出したポピュラーサイエンス本『ミトコンドリアと生きる』の全面改稿作業、終了。8月末に新潮文庫から刊行予定。燃え尽きました……。考えてみると生命科学系の本はかなり久しぶり。
再刊とはいえ、全体の8割近くは新原稿。ちっとはサイエンスライターとして成長したと思いたい。ミトコンドリアの本としては2005年にニック・レーンが『Power, Sex, Suicide』というなかなかよい本を出しているのですが、そっちよりずっとコンパクトで、しかし深い内容になっていると思います。
メタボリックシンドロームの話から始まって、活性酸素と生命進化の話まで。科学読み物というとどうしても時代とともに古びてしまうものですが、これは10年後も基本の一冊として読んでもらえることを目標にしました。
うーむ、タイトルどうしよう。
ウェブで探したんだが、ミトコンドリアの曲の歌詞が見つからない……。「おかあさんといっしょ」のDVDをアマゾンでついぽちっと押してしまった……。
2000年に出したポピュラーサイエンス本『ミトコンドリアと生きる』の全面改稿作業、終了。8月末に新潮文庫から刊行予定。燃え尽きました……。考えてみると生命科学系の本はかなり久しぶり。
再刊とはいえ、全体の8割近くは新原稿。ちっとはサイエンスライターとして成長したと思いたい。ミトコンドリアの本としては2005年にニック・レーンが『Power, Sex, Suicide』というなかなかよい本を出しているのですが、そっちよりずっとコンパクトで、しかし深い内容になっていると思います。
メタボリックシンドロームの話から始まって、活性酸素と生命進化の話まで。科学読み物というとどうしても時代とともに古びてしまうものですが、これは10年後も基本の一冊として読んでもらえることを目標にしました。
うーむ、タイトルどうしよう。
ウェブで探したんだが、ミトコンドリアの曲の歌詞が見つからない……。「おかあさんといっしょ」のDVDをアマゾンでついぽちっと押してしまった……。
2007年06月24日
東北大学100周年
一昨日と昨日は、東北大学100周年の記念式典。工学部と東京の学士会館でそれぞれ講演をしてきた。このところ、講演は一切スライドを使わないという方針を採っていて、こちらのほうが自分としても気分が引き締まる感じ。まあもともと、作家でパワーポイントなどを使う方が珍しいのである。研究者の方も一度なんの資料も見せずにしゃべってみることをお薦めする。
東北大学では、今後の100年に向けて「井上プラン2007」という総長プランが発表されている。細かな内容については措くとして、私ならたとえば次のようなことを盛り込みたいということを書いておこう。
まずひとつ。東北大学って、お世話になった人に対する感謝の気持ちの表し方がとてもへたな大学だと思う。100周年を迎えることができたのは卒業生と在校生と職員、そして地元の人たちのおかげでしょう。100周年の記念式典をやるなら、まずそういった人たちへの心からの感謝を表すことから始めてもいいのじゃないだろうか。職員から寄附金が集まらないというけれどそれは当然のことで、寄附をしても現状では大学側の対応は画一的でちっとも嬉しくないし、誇りにも思えないのだから。「多くの方々と共に挑戦していくことにより、社会から信頼、尊敬、そして愛情を得られる大学として人類社会の発展に貢献」と書かれてあるけれど、まずは大学側が感謝し、他者を信頼し、尊敬し、愛情を持たない限り、そんなことは無理でしょう。「東北大学グランドデザイン」の中にはChallenge, Creation, Innovationと三つの言葉が掲げられているが、200周年までにはぜひそこにHospitalityを加えてほしい。
ふたつめ。今後、東北大学では医工学など異分野融合型の新研究体制を強化してゆくらしい。その一環として「国際高等融合領域研究所」というのを設立するのだとか。結構なことだと思うけれど、異分野融合をそういったひとつの施設に集約してしまうことが、「異分野融合という狭いジャンル」をつくってしまうことにつながるのでは? 異分野融合というのは何もそんな施設があるからうまくいくわけじゃない。今日からでも東北大学の研究者は異分野融合研究を始められるはず。
いまのCOEなどでも複数領域を横断するようになっているが、しっかり異分野融合できているとはとても思えない。まあ何回か他学部と一緒にセミナーをやって、外国に学生を送り出して、あとは学会や発表会をやるということでしょう。本当の異分野融合というのは、送り出される学生にも勇気が必要だが、その人を送り出し、また迎え入れる大学側にも真の勇気があってこそ始まるものじゃないか。私たちは人間なのだから、違和感を消し去ることはできない。ならば違和感を前提としたまま専門家同士が交流するということは、勇気と信頼の問題であろう。そういうことを、薬学や看護、介護の人たちはずっと経験してきたわけで、だからこそ自然科学の主流とは見なされなかった歴史がある。しかし異分野融合を目標に掲げるということは、東北大学はこれからの100年で、どの大学にも増して勇気を持ち続けるのだという意思表明と捉えてよいと私は思う。そもそもこの勇気は大学の名前にすでに刻まれている。「東京」大学や「京都」大学ではない、単なる一都市を冠した名前ではない、広域をひとつに括る「東北」という言葉を、すでに私たちの大学は抱いているではないか。
大学は、専門の基盤を培う場所である。しかし東北大学はここで、専門を基盤に持つもの同士が交流することもサイエンスの一部であると宣言しているわけである。これは自然科学の方法論だけで処理できることではない。次の100年間で本当に東北大学がやらなければならないのはここではないでしょうか、井上総長。
本日は知能ロボットコンテストの本選。日本でいちばんおもしろいロボット競技会です。
「小説宝石」誌でモロッコ旅行や飛行機免許取得などの話を綴ったエッセイ連載が始まりました。
たまにはこんなふうに、ブログっぽいエントリーも。
東北大学では、今後の100年に向けて「井上プラン2007」という総長プランが発表されている。細かな内容については措くとして、私ならたとえば次のようなことを盛り込みたいということを書いておこう。
まずひとつ。東北大学って、お世話になった人に対する感謝の気持ちの表し方がとてもへたな大学だと思う。100周年を迎えることができたのは卒業生と在校生と職員、そして地元の人たちのおかげでしょう。100周年の記念式典をやるなら、まずそういった人たちへの心からの感謝を表すことから始めてもいいのじゃないだろうか。職員から寄附金が集まらないというけれどそれは当然のことで、寄附をしても現状では大学側の対応は画一的でちっとも嬉しくないし、誇りにも思えないのだから。「多くの方々と共に挑戦していくことにより、社会から信頼、尊敬、そして愛情を得られる大学として人類社会の発展に貢献」と書かれてあるけれど、まずは大学側が感謝し、他者を信頼し、尊敬し、愛情を持たない限り、そんなことは無理でしょう。「東北大学グランドデザイン」の中にはChallenge, Creation, Innovationと三つの言葉が掲げられているが、200周年までにはぜひそこにHospitalityを加えてほしい。
ふたつめ。今後、東北大学では医工学など異分野融合型の新研究体制を強化してゆくらしい。その一環として「国際高等融合領域研究所」というのを設立するのだとか。結構なことだと思うけれど、異分野融合をそういったひとつの施設に集約してしまうことが、「異分野融合という狭いジャンル」をつくってしまうことにつながるのでは? 異分野融合というのは何もそんな施設があるからうまくいくわけじゃない。今日からでも東北大学の研究者は異分野融合研究を始められるはず。
いまのCOEなどでも複数領域を横断するようになっているが、しっかり異分野融合できているとはとても思えない。まあ何回か他学部と一緒にセミナーをやって、外国に学生を送り出して、あとは学会や発表会をやるということでしょう。本当の異分野融合というのは、送り出される学生にも勇気が必要だが、その人を送り出し、また迎え入れる大学側にも真の勇気があってこそ始まるものじゃないか。私たちは人間なのだから、違和感を消し去ることはできない。ならば違和感を前提としたまま専門家同士が交流するということは、勇気と信頼の問題であろう。そういうことを、薬学や看護、介護の人たちはずっと経験してきたわけで、だからこそ自然科学の主流とは見なされなかった歴史がある。しかし異分野融合を目標に掲げるということは、東北大学はこれからの100年で、どの大学にも増して勇気を持ち続けるのだという意思表明と捉えてよいと私は思う。そもそもこの勇気は大学の名前にすでに刻まれている。「東京」大学や「京都」大学ではない、単なる一都市を冠した名前ではない、広域をひとつに括る「東北」という言葉を、すでに私たちの大学は抱いているではないか。
大学は、専門の基盤を培う場所である。しかし東北大学はここで、専門を基盤に持つもの同士が交流することもサイエンスの一部であると宣言しているわけである。これは自然科学の方法論だけで処理できることではない。次の100年間で本当に東北大学がやらなければならないのはここではないでしょうか、井上総長。
本日は知能ロボットコンテストの本選。日本でいちばんおもしろいロボット競技会です。
「小説宝石」誌でモロッコ旅行や飛行機免許取得などの話を綴ったエッセイ連載が始まりました。
たまにはこんなふうに、ブログっぽいエントリーも。
2007年05月02日
猶予は6時間
おお、クーンツの新作『ハズバンド』が邦訳出版されている。めでたい限り。
一時期のクーンツは、やや長いフレーズをタイトルに持ってきて、それが凄みを出していた。私はクーンツの長いタイトルが好きで、"Dark River of the Heart"(心の昏き川)とか、"By the Light of the Moon"とか、想像力を掻き立てられてかっこいいよね。
ところが、あるときからクーンツはシンプルなタイトルに戻る。これがまた"The Face"やら"The Taking"やら、「クーンツさん、やる気あるの?」というようなテキトーなタイトル。
でもオッド・トーマスのシリーズ(現在まで3冊刊行。面白いです!)を挟んで、また面白い具合になってきたのだね。
なんと表紙にストーリーが書いてある!
"Velocity"の表紙は、
このメモ用紙が大写しになっているわけ。
わはははは。なんと素晴らしいフック。
『ハズバンド』のカバージャケットになると、
いやあ、いまどき誰がこんなストレートな釣りで本を出せますか。クーンツ万歳。
それで続く新作"The Good Guy"では、
あらすじを読むと、どうやら主人公の男はバーで殺し屋と間違われて、いきなり千ドルを渡される。彼は殺しを依頼した男にそれを返そうとする。なんと相手の男は警官だった! 主人公は殺しの依頼人を止めることができるか? という話らしい。で、表紙に刷り込まれた一言は、
あいかわらずキてます。
すでにその次の作品も告知済み。おお、長いタイトルシリーズ復活!
"The Darkest Evening of the Year"
……もうね、犬のシルエットだけで泣きますよ。しびれます。
一時期のクーンツは、やや長いフレーズをタイトルに持ってきて、それが凄みを出していた。私はクーンツの長いタイトルが好きで、"Dark River of the Heart"(心の昏き川)とか、"By the Light of the Moon"とか、想像力を掻き立てられてかっこいいよね。
ところが、あるときからクーンツはシンプルなタイトルに戻る。これがまた"The Face"やら"The Taking"やら、「クーンツさん、やる気あるの?」というようなテキトーなタイトル。
でもオッド・トーマスのシリーズ(現在まで3冊刊行。面白いです!)を挟んで、また面白い具合になってきたのだね。
なんと表紙にストーリーが書いてある!
"Velocity"の表紙は、
「もしおまえがこのノートを警察に届けなければ、私はナパ・シティのどこかにいる可愛いブロンド教師を殺す。
もしおまえがこのノートを警察に届けたときは、ひとりの中年女を殺す。
どちらを選ぶか、おまえには6時間の猶予がある」
このメモ用紙が大写しになっているわけ。
わはははは。なんと素晴らしいフック。
『ハズバンド』のカバージャケットになると、
「さて、我々はおまえの女房を預かっている。現金200万ドルで返してやろう」
「頼む、聞いてくれ。おれはただの庭師なんだ」
「知っているさ」
「冗談じゃない。どうやって現金200万なんて手に入れればいいんだ?」
「方法を考えろ……」
いやあ、いまどき誰がこんなストレートな釣りで本を出せますか。クーンツ万歳。
それで続く新作"The Good Guy"では、
あらすじを読むと、どうやら主人公の男はバーで殺し屋と間違われて、いきなり千ドルを渡される。彼は殺しを依頼した男にそれを返そうとする。なんと相手の男は警官だった! 主人公は殺しの依頼人を止めることができるか? という話らしい。で、表紙に刷り込まれた一言は、
「かわりに私を殺してくれ」
あいかわらずキてます。
すでにその次の作品も告知済み。おお、長いタイトルシリーズ復活!
"The Darkest Evening of the Year"
……もうね、犬のシルエットだけで泣きますよ。しびれます。
2007年04月26日
2007年04月17日
研究者の作法
今日、大学に行ったら、「研究者の作法 ー科学への愛と誇りをもってー」というパンフレットが届いていた。全教員に配られたものらしい(学内なら大学のサイトでポスターのPDFが見られる)。
・独創性の尊重 アイデアは研究の命です。
・研究への誠実さ 自分を欺かない。
・論文はまごころをこめて
と、3項目が掲げられている。「東北大学研究推進審議会 平成19年4月」の発行。
しかしこれを眺めて思うのは、文芸の世界ではこれらの作法は全く通用しないばかりか、むしろこの作法を破らないと生き延びることができない、という現実だ。理系の大学を出た人間なら、この3つのことはだいたい身についていると思うけれど、この作法で小説を書こうとすると凄まじいジレンマに出会う。
まず読者の多くは、作者のアイデアの独創性など重視しない。多くの人は、面白ければいい、という人間らしい気持ちに忠実である。いや、アイデアの独創性を重視する読者もいるはずだが、重視しない読者の声に掻き消されて、出版社には無視されてしまう。
自分をうまく欺ける人の方が成功する。茂木健一郎さんをここで引き合いに出すのはいいかどうかわからないが、「クオリア」「アハ体験」「1回性の人生」などは、別に茂木さんがつくった言葉ではないし、茂木さんが初めて言い出したことでもない。でもあたかもそれらを自分で考えたかのように語ることで、茂木さんはポピュラリティを獲得した。読者は作家が自分の言葉で語っていると思い込みたいものなのだ。誰かの引用など読みたくないわけである。茂木さん自身はこのことについて何のコメントもしていない。だから少なくとも科学者としてウソはついていない。さて、茂木さんは自分を欺いているかどうか? それはわからないが、茂木さんはペルソナを使い分けていると思う。そして少なくとも一部の読者を誤解させているとは思う。
私はある時期から小説の巻末に参考文献一覧をつけるのをやめたが、これは読者や評論家から強い批判があったためだ。「文献一覧を載せなければ裁判で負けるほど、この本は他の著書からぱくっているに違いない」と邪推されるのである。研究において誠実であることを示す行為は、他の社会にとっては悪事を覆い隠す兆候とみなされる。
そして、まごころをこめない本のほうが売れてしまう現実がある。自分で原稿を書くのではなく、適当に編集者の前でしゃべり、それを文章に起こしてもらう。そういうタイプの本のほうが売れる。科学者も、このようなつくりの本を受け容れてしまう。
最近思うのだが、科学者もアウトリーチ活動が大切、といわれるようになってきたけれど、たぶんまだ多くの科学者は論文を書くときとマスメディアで語るときで「研究者の作法」を変えていて、そのことに全く疑問を感じていないんだと思う。論文は大切だけれど、まあテレビの取材は適当に学生に任せておけばいいよね、忙しいし、という感じになってしまっている。それが「不作法」であることを、科学者はいまどのくらい自覚しているだろう。
しかし自覚したとしても、「作法」を守っていたら確実にメディア業界では飢えて死ぬのである。
もちろん、こういうパンフレットで基本を周知させることも大切だろうけれど、捏造の問題は科学業界の中だけに閉じたルールの問題ではなくて、外部と接触するときのルールのあり方であると思うのだ。『あるある大辞典』だって、取材された研究者個々人がきちんと自衛していれば防げた部分がいっぱいある。
このパンフレットを文芸編集者の前に差し出して、鼻で笑われることのない社会をつくってゆくには、どうしたらいいんだろうか。
私にはまだ解答がない。
・独創性の尊重 アイデアは研究の命です。
・研究への誠実さ 自分を欺かない。
・論文はまごころをこめて
と、3項目が掲げられている。「東北大学研究推進審議会 平成19年4月」の発行。
しかしこれを眺めて思うのは、文芸の世界ではこれらの作法は全く通用しないばかりか、むしろこの作法を破らないと生き延びることができない、という現実だ。理系の大学を出た人間なら、この3つのことはだいたい身についていると思うけれど、この作法で小説を書こうとすると凄まじいジレンマに出会う。
まず読者の多くは、作者のアイデアの独創性など重視しない。多くの人は、面白ければいい、という人間らしい気持ちに忠実である。いや、アイデアの独創性を重視する読者もいるはずだが、重視しない読者の声に掻き消されて、出版社には無視されてしまう。
自分をうまく欺ける人の方が成功する。茂木健一郎さんをここで引き合いに出すのはいいかどうかわからないが、「クオリア」「アハ体験」「1回性の人生」などは、別に茂木さんがつくった言葉ではないし、茂木さんが初めて言い出したことでもない。でもあたかもそれらを自分で考えたかのように語ることで、茂木さんはポピュラリティを獲得した。読者は作家が自分の言葉で語っていると思い込みたいものなのだ。誰かの引用など読みたくないわけである。茂木さん自身はこのことについて何のコメントもしていない。だから少なくとも科学者としてウソはついていない。さて、茂木さんは自分を欺いているかどうか? それはわからないが、茂木さんはペルソナを使い分けていると思う。そして少なくとも一部の読者を誤解させているとは思う。
私はある時期から小説の巻末に参考文献一覧をつけるのをやめたが、これは読者や評論家から強い批判があったためだ。「文献一覧を載せなければ裁判で負けるほど、この本は他の著書からぱくっているに違いない」と邪推されるのである。研究において誠実であることを示す行為は、他の社会にとっては悪事を覆い隠す兆候とみなされる。
そして、まごころをこめない本のほうが売れてしまう現実がある。自分で原稿を書くのではなく、適当に編集者の前でしゃべり、それを文章に起こしてもらう。そういうタイプの本のほうが売れる。科学者も、このようなつくりの本を受け容れてしまう。
最近思うのだが、科学者もアウトリーチ活動が大切、といわれるようになってきたけれど、たぶんまだ多くの科学者は論文を書くときとマスメディアで語るときで「研究者の作法」を変えていて、そのことに全く疑問を感じていないんだと思う。論文は大切だけれど、まあテレビの取材は適当に学生に任せておけばいいよね、忙しいし、という感じになってしまっている。それが「不作法」であることを、科学者はいまどのくらい自覚しているだろう。
しかし自覚したとしても、「作法」を守っていたら確実にメディア業界では飢えて死ぬのである。
もちろん、こういうパンフレットで基本を周知させることも大切だろうけれど、捏造の問題は科学業界の中だけに閉じたルールの問題ではなくて、外部と接触するときのルールのあり方であると思うのだ。『あるある大辞典』だって、取材された研究者個々人がきちんと自衛していれば防げた部分がいっぱいある。
このパンフレットを文芸編集者の前に差し出して、鼻で笑われることのない社会をつくってゆくには、どうしたらいいんだろうか。
私にはまだ解答がない。
2007年04月03日
ミンダトロン♪
東京駅の東北新幹線改札口の近くに、ちょっと小綺麗なエスニック料理店がある。時間が余ったとき、そこで飯を食べることがあるのだが、いつも店員たちが「なんちゃらかんちゃらミンダトロン」と声を上げているのである。「なんちゃらかんちゃら」の部分はいろいろ違っていて、とても憶えられない。いったい何語? とずっと前から疑問に思っていたので、本日ついに意を決し、レジ精算のときに女の子に訊いてみた。
みんながさえずっているのはインドネシア語で、「ミンダトロン」は「お願いします」の意味らしい。
東京駅を利用するインドネシア人に、「おお、俺たちの言葉がトーキョーで使われている!」と話しかけられてしまうことはないのか? そんなとき店員たちはどうするのだ? ひょっとして彼らはインドネシア語がぺらぺらなのか?
謎は深まるのである。
みんながさえずっているのはインドネシア語で、「ミンダトロン」は「お願いします」の意味らしい。
東京駅を利用するインドネシア人に、「おお、俺たちの言葉がトーキョーで使われている!」と話しかけられてしまうことはないのか? そんなとき店員たちはどうするのだ? ひょっとして彼らはインドネシア語がぺらぺらなのか?
謎は深まるのである。
2007年02月25日
課外ゼミをはじめてみた
東北大の大学院生ごく数名と、課外ゼミのようなものをはじめてみた。
おおむね月一回のペースで集まって、みんなで一冊の本、あるいは一本の映画について語り合う。感想だけじゃなくて、自分の研究と結びつけて、そこから20年後の科学と文学を語ってみるというのがミソ。しかも一見サイエンスとは関わりのなさそうな物語をあえて選択して、まずはお話の面白さから入ってみるのだ。これをきっかけとして読書のリズムもついてくる。特任教授になってから、「いったい大学で何やってるの?」と訊かれることも多いのだが、私が本当にやりたかったのはこういう贅沢な遊びなのだ。
未来を語るとき、5年後くらいの近い未来や、100年後といった遠い未来の話は意外と簡単にできる。いちばん難しいのが20年後で、学生たちはばりばり仕事をしている頃。このくらいのスパンで未来を語れる能力を鍛練するというのは、作家にとっても研究者にとってもすごく大切なことだと思うのだ。お茶とお菓子を持ち寄って昼下がりに集まり、3時間しゃべるのだが、初回にしては話題も盛り上がって、まずはよい滑り出し。
初回のお題はロバート・ウェストールの児童文学『弟の戦争』(徳間書店)。ウェストールは好きな作家で、『かかし』とか『海辺の王国』とか本当に素晴らしいのだけれど、まずはウェストールの中でもわかりやすくて短い作品にしてみた。でもクライマックスからラストにかけては本当にこわいよ。
湾岸戦争の話なんだが、湾岸戦争は1990年で、もう17年も昔のことなのだよね。この17年を未来へと折り返せば、約20年後ということになる。このスパンは、読む人の年齢によっても受け取り方が違う。
次回のお題は、映画『ミニミニ大作戦』!
何回かやってみて、ペースがつかめてきたら、議事録を一般にも公開するような仕組みを整えてゆくつもり。やっている当事者の人数は少ないけれど、もしこの公開版で他大学の学生にも刺激を与えられれば面白い。
2007年02月10日
ヤンキー、ズールー
本日は航空特殊無線技士の試験日。アメリカでとったパイロットのライセンスを、日本のものに書き換えるためにはこれを受けなければならないのだ。アルファ、チャーリー、ケベック、シエラ、タンゴ……とか紙に書かれているアルファベットを延々と声に出してゆく送信テストがあるのだが、口が回らなくて困った(汗)。いったんゲシュタルト崩壊すると、立ち直るまでに時間が掛かる。
『SFが読みたい! 2007年版』(早川書房)というムックが発売されていたので手に取った。
この『SFが読みたい!』、毎年刊行されているのだが、事前にランキングが私の耳に入ったことは一度もない(座談等で自分が紙面に登場したときは除く)。いつも店頭で本を開いて、そこではじめて自分の評価がわかる。版元の編集者からも「瀬名さんの本がランキングに入りましたよ」などと連絡をもらったことは一度としてない(ムック刊行前も、刊行後も)。これってつまり、早川書房から刊行した作家以外は、ランキングが知らされないし版元にも連絡が行ってないということなんだろうか。たぶん『あしたのロボット』の編集者も、『デカルトの密室』の編集者も、自分の編集した小説が『SFが読みたい!』で言及されていた事実はいまだに知らないと思う。
ここでいっても意味のないことかもしれないけれど、せめて20位以内に入った作品に関しては、その版元に連絡してあげるといいんじゃないかなあ。あくまで早川書房の書籍の販促という位置づけであれば現状でも構わないけれど、きっと別の版元の編集者だって、自分の編集した本がよそで評価を受けたと知れば嬉しいと思うのだ。そしてきっと、作家と喜びを分かち合うと思うよ。何位かということはどうでもいいけれど、そこで取り上げられたということが嬉しいんじゃないか。そういうちょっとした喜びの繋がりを、早川書房以外の版元まで拡げてゆく行為って、とても大切なことだと私は思うのだ。
*もし版元に連絡しているのなら、単に私と版元の連絡不行き届きです。そのときはごめんなさい。
『SFが読みたい! 2007年版』(早川書房)というムックが発売されていたので手に取った。
この『SFが読みたい!』、毎年刊行されているのだが、事前にランキングが私の耳に入ったことは一度もない(座談等で自分が紙面に登場したときは除く)。いつも店頭で本を開いて、そこではじめて自分の評価がわかる。版元の編集者からも「瀬名さんの本がランキングに入りましたよ」などと連絡をもらったことは一度としてない(ムック刊行前も、刊行後も)。これってつまり、早川書房から刊行した作家以外は、ランキングが知らされないし版元にも連絡が行ってないということなんだろうか。たぶん『あしたのロボット』の編集者も、『デカルトの密室』の編集者も、自分の編集した小説が『SFが読みたい!』で言及されていた事実はいまだに知らないと思う。
ここでいっても意味のないことかもしれないけれど、せめて20位以内に入った作品に関しては、その版元に連絡してあげるといいんじゃないかなあ。あくまで早川書房の書籍の販促という位置づけであれば現状でも構わないけれど、きっと別の版元の編集者だって、自分の編集した本がよそで評価を受けたと知れば嬉しいと思うのだ。そしてきっと、作家と喜びを分かち合うと思うよ。何位かということはどうでもいいけれど、そこで取り上げられたということが嬉しいんじゃないか。そういうちょっとした喜びの繋がりを、早川書房以外の版元まで拡げてゆく行為って、とても大切なことだと私は思うのだ。
*もし版元に連絡しているのなら、単に私と版元の連絡不行き届きです。そのときはごめんなさい。
2007年01月29日
拙事務所のポリシー
昨年末に出した『境界知のダイナミズム』、紀伊國屋ブックウェブの「この商品と同じ分野の売れ筋商品を見る」では最近6か月間の販売数で12位、最近1か月では3位。ロングセラーばかりを相手に、地味な本としては健闘。嬉しい。もっと上がれ〜!
なんかこのところ、日々の用務以外では書評用の本と資料の本ばかり読んでいてへろへろである。今日もノーベル賞化学者ミッチェルの伝記をひたすら読んでいた。いわば滑走路の端でブレーキを踏んでフルスロットルに入れ、ショートフィールド・テイクオフ直前の状態か。いや、これから書きまくりますよ! とはいえ、Vxを達成しても、最終的にはVyにしなければリーチが伸びない、つまり原稿は上がらないのだ……。
世間では某番組の捏造問題が取り沙汰されていて、以前にもそんな捏造があったとか、そのときの学者がいまごろ告発して「研究者への信頼が失われる」といっているが、研究者に限らず人はそうやって何度もTV出演での失敗を経験して自衛手段を身につけてゆくのである。しかしそれでも失敗するのであって、そういうときに限って人に叩かれたりするのである。
番組制作会社に指針を要求することは悪くないけれど、それ以前に学者は自分たちで指針をつくったほうがいいと思う。たとえば学会で指針を出してもいいし、大学・学部単位で取り決めておいてもいい。取材を受けるとき、私たちはこのようにしていますというポリシーを公表しておくのだ。取材を受けて失敗するのは、俺の経験上、おおむね他人の損益が絡むときである。大学の宣伝になるから、これに出れば研究費が稼げるかもしれないから、といった理由で人づてに頼まれて出演すると失敗しやすい。
俺自身は次のような基本方針を立てている。
・新聞や雑誌からの取材は、自分の発言部分のゲラを事前に見せてくれと必ず頼む。無理だと言われた場合は辞退する。(記者によって対応は異なるので、その都度自分で先方に尋ねるのがよい。そういったやりとりは、出版社の編集部任せにしてはいけない。トラブルの元になる)
・講演依頼があった場合は、事前に依頼フォーマット(A4の紙一枚)を先方に送り、そこに講演料や交通費の有無、他媒体への転用の可能性(講演録を雑誌に載せるなど)、要旨提出の必要性などを、面倒でも記入してもらう。それをいただいた上で諾否を判断する。後から「要旨を書いて下さい」「講演録の校正をして下さい」といわれると、スケジュールに支障が出て困るからだ。もちろん、講演料の金額では諾否を決定しないことも事前に伝えておく。
・TV出演の場合、許容範囲内での「編集」というものはある。例えば、俺と学生が話をしているところを撮影したい、といわれて、わざわざそのような状況をセッティングすることはある。撮影の角度を変えたいのでもう一度喋ってくれとか。ただ、たとえそういうときでも、必要以上のパフォーマンスは絶対に控えなければならない。またTV番組の場合は、雑誌と違って事前に編集内容をチェックすることはまず不可能。なので事前にディレクターと打ち合わせをして、できるならば台本も見せてもらい、相手が何を撮影するのか把握した上で協力しなければならない。それでも編集権は別の人が持っている場合もあって、ディレクターでも番組の内容が自由にならないときがある。だから少なくともテープが回っているとき、自分の本心ではない言葉は決して喋ってはならない。不要な映像は撮らせないことも大切。事件報道でもない限り、撮影してよいところとだめなところは取材される側が決めてよいのだから、ディレクターのいいなりになる必要はない。出演の諾否を決めるときは、その番組がこれまでどのような放送をしてきたのか事前にチェックしておくのが望ましい(番組のサンプルを事前にビデオで送ってもらうのがよいだろう)。それから、放送後は必ずDVDやビデオテープなどで内容を送付してもらうよう頼んでおく。余談だが、TVから依頼が来ると舞い上がってしまって他人に「放送を見てね」と連絡しまくる人がいるが、TVの放映はさまざまな要因で内容や時間が変更されてしまうのだから、実際に放映されるまでは謙虚にしておくのが得策である。
・俺の場合、作家としての立場と科学者としての立場が明確に区別できないことも多いので、自分の意見とは思えない発言や、確信の持てない発言は控えるようにしている。作家なら放言でしたで済むが、科学者としての立場ならそれは許されないからだ。TVの場合、「番組の構成上ここでこのように発言してほしい」と頼まれることも多いが、あまりに違和感がある場合や、こちらで事実関係を確認できない場合は、できる限りこちらの意見を述べて折衷案を模索し、台本を書き直してもらうよう頼むことにしている。
もちろん信頼できるディレクターもたくさんいる。なので過剰に警戒してもよくない。相手を見て、互いに気持ちよく仕事できるようにするのがいちばんである。
2007年01月16日
2007年01月15日
皇帝アルセーヌ一世
『戯曲アルセーヌ・ルパン』(論創社)読了。もちろん内容も面白いのだけれど、巻末の住田忠久氏による解説とルパン・シリーズ出版目録が本当に素晴らしい。いやあ、勉強になります。
で、やはり勢いに乗って、以前から自分への宿題だった1914年英訳版『虎の牙』の内容を(ようやく)確認してみた。『虎の牙』の後半で、ルパンの壮大なモーリタニア冒険譚が語られることは周知の通り。これは第一次大戦直後の話でないと意味が通らなくなるのだが、実はこの『虎の牙』、ハリウッドからの要請で執筆された作品で、フランス本国での発表(1920年)よりずいぶん前の1914年にアメリカで先行出版されている。このことをミステリマガジンの記事で初めて知って、慌てて1914年の初版を古書店で求めたという次第。1914年ということは、つまりこの物語は大戦前に書かれていたわけで、どうしてそんなことが成立可能なのか不思議だったのだ。
で、肝心の部分を邦訳とつきあわせてみた。
おお、第一次大戦に関係する部分だけが見事にない。例えば偕成社のアルセーヌ=ルパン全集『虎の牙』上巻P.239に登場する「一九一九年一月四日」という日付、1914年の英訳版だと「4, January, 19__.」となっていて、西暦の下二桁が書かれていない!
下巻で『金三角』や『三十棺桶島』に言及している台詞もない。でも『813』に言及している部分はある。なるほど……。
ルパンがモーリタニアについて語る大切な場面での相違は、おおむね次の通り。偕成社版、とあるのは、全集13巻の『虎の牙』下巻。
偕成社版P.175,L.8-P.177,L.7存在せず。
偕成社版P.178,L.4-6存在せず。
偕成社版P.178,L.14-16存在せず。
偕成社版P.180,L.4-5存在せず。
偕成社版P.181,L.6-16存在せず。「話せ!」とバラングレーはいった。
偕成社版P.182,L.15-P.184,L.11(創元推理文庫版P.465-467)
「つまり、私が囚人であったとき何をしていたのか、何もご存じないのですね?」
「知らない」
「では総理、お話しましょう。それほど時間はかかりません」
ドン・ルイスは地図に示されているモロッコのある地点を鉛筆で指した。
「7月24日、私はここで囚われの身となりました。私が捕虜になったことは、警視総監だけでなく事の子細を聞きつけた誰もが奇妙に思われたことでしょう。私が待ち伏せされて囚われの身になるほどの愚か者だと驚いたわけです。彼らが驚くのも無理はない。だが捕虜になったのは私自身が慎重に決めたことだったのですよ。
総理はおそらく憶えておられるでしょうが、……(中略)
……それも私の行動の欲求を満たすには不充分でした。
あの日、はっきりとは意識していませんでしたが、私はいまだよく見えぬ雄大な目標に向かって、やみくもに進み出していたのです。あの日、敵の一団に囲まれた私は、まだ戦えたにもかかわらず、わざと捕虜になったのです。
話の要点はここです、総理。私は捕虜だったが、自由だった。……(後略)」
偕成社版P197,L.9-P.198,L.16(創元推理文庫版P.479-480)
「説明してくれ。もっと詳しく」
ドン・ルイスは応じた。
「総理、この数年の間に起こった出来事については、改めてお話しません。フランスは北アフリカ全域の統治というすばらしい夢を追求することを決意して、コンゴの一部を手放さねばなりませんでした。私はその痛手を癒すために、失われたものの30倍にも値するものを差し上げようというのです。あなたが一挙にセネガルまで征服したモロッコの狭い地域と結びつけることによって、広大かつ遠大なる夢がすぐさま現実のものとなるのです。
いまや、史上最大のフランス領アフリカが存在しているのです。私のおかげで、その地は堅固に、しっかりと連合しています。何百万マイル四方の領地と、いくつかのさほど重要でない飛び地を除いてチュニスからコンゴまで何千マイルも続く長い海岸線がそこにある」
「それは夢の中だけのユートピアではないか」バラングレーは抗議した。
「いや、真実です」
ルパン愛好家の間では周知の事実なのかもしれないが、かなり目から鱗。
もう一度、しっかり当時の政治状況を調べ直してみよう。
2007年01月05日
You know my name
このところ、まったく年末年始に帰省しなかったので、さすがに今年は帰った。
で、元日は初詣と映画。年のはじめに観るのは、もちろん『カジノ・ロワイヤル』だ!
いやあ、面白いね。新しいボンド役のダニエル・クレイグ、最初のうちはあまりカッコよくないなあと思っていたのだけれど、後半になってどんどん『ドクター・ノオ』のショーン・コネリーそっくりに見えてくるのだからすごい。マティーニを最後まで飲まないあたりとか、脚本もあちこちで小技が利いている。
満足して帰ろうと思ったら、若い女性グループが「なんかいつもの秘密道具が出てこなかった」「途中、タルくて寝たわ」などと話し合っていたのだが、うーむ。今回小道具が出てこないのは、この映画の後に『ドクター・ノオ』が来るからなんだよ! Q(デズモンド・リューウェリンがやってたいつもの*)が出てくるのは2作目からなんだよ! と無駄に力説したくなったのであった。
勢いに乗って、主題歌をウェブでダウンロードして聴きまくり、カビー・ブロッコリの自伝を古本で購入する。さらにその勢いで長篇の仕事をする。
*追記:正確にいうと、『ドクター・ノオ』では別の人が演じていて、まだ役柄もあまり定まっていないのです。
で、元日は初詣と映画。年のはじめに観るのは、もちろん『カジノ・ロワイヤル』だ!
いやあ、面白いね。新しいボンド役のダニエル・クレイグ、最初のうちはあまりカッコよくないなあと思っていたのだけれど、後半になってどんどん『ドクター・ノオ』のショーン・コネリーそっくりに見えてくるのだからすごい。マティーニを最後まで飲まないあたりとか、脚本もあちこちで小技が利いている。
満足して帰ろうと思ったら、若い女性グループが「なんかいつもの秘密道具が出てこなかった」「途中、タルくて寝たわ」などと話し合っていたのだが、うーむ。今回小道具が出てこないのは、この映画の後に『ドクター・ノオ』が来るからなんだよ! Q(デズモンド・リューウェリンがやってたいつもの*)が出てくるのは2作目からなんだよ! と無駄に力説したくなったのであった。
勢いに乗って、主題歌をウェブでダウンロードして聴きまくり、カビー・ブロッコリの自伝を古本で購入する。さらにその勢いで長篇の仕事をする。
*追記:正確にいうと、『ドクター・ノオ』では別の人が演じていて、まだ役柄もあまり定まっていないのです。
2006年12月31日
2006年をふりかえる
先日、東北大学医学部附属病院に行ったら、すっかり変わっていて驚いた。薬剤部もいつの間にか2階に上がっている。島津のMALDIも入っていた! 調剤室ではでかいピッキングマシンが患者ひとりひとりの処方にあわせて次々とバケットにクスリを入れてゆく。
『パラサイト・イヴ』を出版してから来年で12年になるが、当時とはかなり変わった。俺はあの頃、基礎系の研究を担当していたのだが、患者のモニタリングの研究の方は、お世辞にもまだ成熟したものとはいえなかったと思う。しかしあの頃夢に描いていたことは、いまかなり実現化している。この12年間で、本当に人の役に立つ仕事が「科学」になってきたということだろう。
先日、「今年のロボット」大賞の授賞式があり、やはりここでも「人の役に立つ」「ビジネスとしてきちんと成功している」ロボットが高く評価された。もうひとつ大切なのは、「安全である」ということだ。愛知万博が終わって、ロボット周辺の雰囲気もずいぶんと変化したのではないか。
この2006年は俺にとって、「本当に人の役に立つこと」が「科学」とようやくイコールで結ばれる現実が見えてきた年だった。言い換えるなら、「人の役に立つ仕事をしている人」が「科学者」と同義になり始めた、ということだ。もちろんそれ以前にもそのような動きは脈々と続いていたはずだけれど、それが俺のような隅の人間でも実感できるようになってきたというか。
一方で、どこかのジャーナリストが騒ぎ立てると、わっと皆がそこに注目して、科学者もそこに金脈があると色めき立つ、という構図もあからさまに見えた年でもあった。で、やっぱりそっちのほうが時流に乗っている感じがするし、派手に見える。「役に立つ」「安全」なんて地味だし、そういうことを一所懸命やっている人はウェブで声高に喚いたりしない。社会というのは、この両方で動いている。
で、作家として、じゃあおまえはどっちを取るのか、と問い掛けられているような気がした一年だった。作家としてなら、当然前者を取った方が(短期的には)儲かるに決まっている。でもそうでない方法だってあるはずだ。
12年間で薬剤部の仕事が当然のように科学になったように、きっと次の12年間で、作家という仕事も変わるだろう。
今年出版した本は次の通り。
新刊は『第九の日』『おとぎの国の科学』『境界知のダイナミズム』
文庫化は『八月の博物館』『贈る物語 Wonder』
ケンイチくんシリーズと『境界知のダイナミズム』は、図らずもこの12年間の集大成という感じの本に仕上がったので、これらが出版できたことは嬉しい。しかし『境界知のダイナミズム』は、書店によって置かれている場所がばらばらで笑える。ある書店は社会学、ある書店は人文・思想、ある書店は脳・神経。文理融合ってつまりこういうことなのだ。
この年末年始は、マイクル・クライトンの新作『Next』を読むつもり。遺伝子ものだが、巻末のお薦め本一覧はありふれた本ばかりでちょっとげんなり、もうクライトンもおしまいか、と思っていたら、チェスタトンの本が二冊も取り上げられていて目を瞠った。クライトンがチェスタトンをどう扱ったのか、俄然興味が出てきた次第。
来年はもっと小説を書きたい。ひたすらエンターテインメントを書きたい。でもその願いが叶うかどうかはわからない。
『パラサイト・イヴ』を出版してから来年で12年になるが、当時とはかなり変わった。俺はあの頃、基礎系の研究を担当していたのだが、患者のモニタリングの研究の方は、お世辞にもまだ成熟したものとはいえなかったと思う。しかしあの頃夢に描いていたことは、いまかなり実現化している。この12年間で、本当に人の役に立つ仕事が「科学」になってきたということだろう。
先日、「今年のロボット」大賞の授賞式があり、やはりここでも「人の役に立つ」「ビジネスとしてきちんと成功している」ロボットが高く評価された。もうひとつ大切なのは、「安全である」ということだ。愛知万博が終わって、ロボット周辺の雰囲気もずいぶんと変化したのではないか。
この2006年は俺にとって、「本当に人の役に立つこと」が「科学」とようやくイコールで結ばれる現実が見えてきた年だった。言い換えるなら、「人の役に立つ仕事をしている人」が「科学者」と同義になり始めた、ということだ。もちろんそれ以前にもそのような動きは脈々と続いていたはずだけれど、それが俺のような隅の人間でも実感できるようになってきたというか。
一方で、どこかのジャーナリストが騒ぎ立てると、わっと皆がそこに注目して、科学者もそこに金脈があると色めき立つ、という構図もあからさまに見えた年でもあった。で、やっぱりそっちのほうが時流に乗っている感じがするし、派手に見える。「役に立つ」「安全」なんて地味だし、そういうことを一所懸命やっている人はウェブで声高に喚いたりしない。社会というのは、この両方で動いている。
で、作家として、じゃあおまえはどっちを取るのか、と問い掛けられているような気がした一年だった。作家としてなら、当然前者を取った方が(短期的には)儲かるに決まっている。でもそうでない方法だってあるはずだ。
12年間で薬剤部の仕事が当然のように科学になったように、きっと次の12年間で、作家という仕事も変わるだろう。
今年出版した本は次の通り。
新刊は『第九の日』『おとぎの国の科学』『境界知のダイナミズム』
文庫化は『八月の博物館』『贈る物語 Wonder』
ケンイチくんシリーズと『境界知のダイナミズム』は、図らずもこの12年間の集大成という感じの本に仕上がったので、これらが出版できたことは嬉しい。しかし『境界知のダイナミズム』は、書店によって置かれている場所がばらばらで笑える。ある書店は社会学、ある書店は人文・思想、ある書店は脳・神経。文理融合ってつまりこういうことなのだ。
この年末年始は、マイクル・クライトンの新作『Next』を読むつもり。遺伝子ものだが、巻末のお薦め本一覧はありふれた本ばかりでちょっとげんなり、もうクライトンもおしまいか、と思っていたら、チェスタトンの本が二冊も取り上げられていて目を瞠った。クライトンがチェスタトンをどう扱ったのか、俄然興味が出てきた次第。
来年はもっと小説を書きたい。ひたすらエンターテインメントを書きたい。でもその願いが叶うかどうかはわからない。
2006年12月23日
2006年11月06日
残酷な奇跡の時代
『境界知のダイナミズム』のゲラ校正終了。疲れた……。燃え尽きた……。
言及される作家や小説
ダン・シモンズ『サマー・オブ・ナイト』
横道仁志「『鳥姫伝』評論 断絶に架かる一本の橋」
G・K・チェスタトン「おとぎの国の倫理学」
スタニスワフ・レム『ソラリス』
テッド・チャン「あなたの人生の物語」
アントン・チェーホフ「退屈な話」
ジョウゼフ・コンラッド『シャドウ・ライン』
アルベール・カミュ『異邦人』
J・R・R・トールキン『指輪物語』
うーむ節操がない。これらに脳科学や言語進化学や文化人類学や社会心理学や認知ロボティクスの話が絡む。俺のノンフィクション作品の中ではダントツで面白いと思うのだけれど、どれだけ売れるかさっぱりわからない。そもそも文芸編集者に読んでもらえなさそう。
ところでレムの『ソラリス』のラスト一文が、旧来のハヤカワ版と新しい国書刊行会版でかなり違うことは有名な話。今回の原稿では、国書刊行会版で押し通したが、なぜかというとハヤカワ版から引用すると論旨が成り立たなくなってしまうから。
ロシア語から翻訳されたハヤカワ版のラストは次の通り。「しかし、私は、驚くべき奇蹟の時代はまだ永遠に過去のものとなってしまったわけではない、ということを固く信じていた」
ポーランド語からの国書刊行会版はこうなる。「それでも、残酷な奇跡の時代が過ぎ去ったわけではないという信念を、私は揺るぎなく持ち続けていたのだ」
では英語版は? と思ってAmazonで立ち読みしてみた。「I persisted in the faith that the time of cruel miracles was not past.」
ふーむ、persistやfaithという語感からすると、やはり信念が持続する感じが入っていて、国書版の方が近い。
しかしレムって、ロボットのことをどう考えていたのかよくわからん。いや、小説からだけならわかるのだが、トータルでどう考えていたのだろう。『技術大全』や『対話』を読まないと、レムのロボット観について何も有意義なことは語れそうにない気がする。というわけでそれらの原著を買ってあるのだが、俺にはとても読めないのであった。
いや、こんなことを書いている場合ではなく、まだ他にも残されたことが……。
言及される作家や小説
ダン・シモンズ『サマー・オブ・ナイト』
横道仁志「『鳥姫伝』評論 断絶に架かる一本の橋」
G・K・チェスタトン「おとぎの国の倫理学」
スタニスワフ・レム『ソラリス』
テッド・チャン「あなたの人生の物語」
アントン・チェーホフ「退屈な話」
ジョウゼフ・コンラッド『シャドウ・ライン』
アルベール・カミュ『異邦人』
J・R・R・トールキン『指輪物語』
うーむ節操がない。これらに脳科学や言語進化学や文化人類学や社会心理学や認知ロボティクスの話が絡む。俺のノンフィクション作品の中ではダントツで面白いと思うのだけれど、どれだけ売れるかさっぱりわからない。そもそも文芸編集者に読んでもらえなさそう。
ところでレムの『ソラリス』のラスト一文が、旧来のハヤカワ版と新しい国書刊行会版でかなり違うことは有名な話。今回の原稿では、国書刊行会版で押し通したが、なぜかというとハヤカワ版から引用すると論旨が成り立たなくなってしまうから。
ロシア語から翻訳されたハヤカワ版のラストは次の通り。「しかし、私は、驚くべき奇蹟の時代はまだ永遠に過去のものとなってしまったわけではない、ということを固く信じていた」
ポーランド語からの国書刊行会版はこうなる。「それでも、残酷な奇跡の時代が過ぎ去ったわけではないという信念を、私は揺るぎなく持ち続けていたのだ」
では英語版は? と思ってAmazonで立ち読みしてみた。「I persisted in the faith that the time of cruel miracles was not past.」
ふーむ、persistやfaithという語感からすると、やはり信念が持続する感じが入っていて、国書版の方が近い。
しかしレムって、ロボットのことをどう考えていたのかよくわからん。いや、小説からだけならわかるのだが、トータルでどう考えていたのだろう。『技術大全』や『対話』を読まないと、レムのロボット観について何も有意義なことは語れそうにない気がする。というわけでそれらの原著を買ってあるのだが、俺にはとても読めないのであった。
いや、こんなことを書いている場合ではなく、まだ他にも残されたことが……。
2006年10月14日
ためらい迷うロボット
『〈境界知〉のダイナミズム』の原稿、ようやく大詰め。いままで延びていたのかよと呆れられそうだが、これでも懸命にやっているのだ。書いては消し、書いては消し、を繰り返して、結局1年近くかかってしまったのではないか。12月刊行予定らしい。大丈夫なのかいったい。
まあしかし、これをやったことで、次のステージに進めるような気がする。
雑誌『d/sign』13号に、鈴木一誌さんから受けたロング・インタビューが載っている。昔購入したアシモフ『I, Robot』の初版本の書影も掲載されている。野田昌宏コレクションより美本である。どうだ参ったか(昨年、浅田稔さんに譲った)。このインタビューで、ロボット関連の仕事は第一期完結という感じだ。
書誌情報などはまた後で。
小松左京全集を注文する。これまで日本人の全集を購入したのは、山川方夫と海野十三だけ。しかしコンラッドを読み始めてから、なぜかいろいろ選集を集めたくなり、ユゴーとバルザックとゾラとコリンズに手を出す。ようやくこういう作家が読みたいと思えるような年齢になってきたのは、ちょっと嬉しい。
こないだ、ある人から、荒蝦夷の「あら」はもともと「あら皮」と同じ意味からきているのではないかと指摘されて、へえ、なるほどと思った。
まあしかし、これをやったことで、次のステージに進めるような気がする。
雑誌『d/sign』13号に、鈴木一誌さんから受けたロング・インタビューが載っている。昔購入したアシモフ『I, Robot』の初版本の書影も掲載されている。野田昌宏コレクションより美本である。どうだ参ったか(昨年、浅田稔さんに譲った)。このインタビューで、ロボット関連の仕事は第一期完結という感じだ。
書誌情報などはまた後で。
小松左京全集を注文する。これまで日本人の全集を購入したのは、山川方夫と海野十三だけ。しかしコンラッドを読み始めてから、なぜかいろいろ選集を集めたくなり、ユゴーとバルザックとゾラとコリンズに手を出す。ようやくこういう作家が読みたいと思えるような年齢になってきたのは、ちょっと嬉しい。
こないだ、ある人から、荒蝦夷の「あら」はもともと「あら皮」と同じ意味からきているのではないかと指摘されて、へえ、なるほどと思った。
