もちろん編集権は編集部にあるわけですが、お仕事のひとつを公的に批評されたからといって別の原稿まで有無をいわさず削除する編集方針には大きな疑問を感じました。それまでこの有限会社荒蝦夷さんには、新人スタッフの原稿チェックなどを一年以上にわたって私が続けてきました。毎週数時間の原稿の書き直しを無償でおこなってきました。他にも彼らを信頼するかたちで共同作業してきた仕事がありましたが、すべて信頼しすぎたあげくに結果を出せない状況に陥りました。それがたった一回、ウェブのブログで意見を表明したらこの有様です。
掲載されない旨を通達してきたメールを受け取った直後、私は「掲載されないなら原稿料は要りません」と伝えました。しかし実際はその日のうちにごくささやかな金額がまるで手切れ金のように振り込まれていました。私は困惑し、説明がいただけるのを待っていましたが叶わず、一カ月後に問い合わせたところ「手違いでした」というメールが戻ってきました。私は振り込まれた金額を返却しました。
ここに私の原稿二編を公開します。現在『仙台学』に収録されているものと比べてどちらがクオリティが高いか、読者の皆様にぜひご判断いただきたいと思います。
仙台学コメント原稿
取材を終えて、おしかホエールランドの近くの食堂でクジラ定食を食べているとき、須藤さんが少し考え込んだ後にこう呟いた。
「大きいなって思いました。どこも、博物館に展示するには」
人は記憶を風化させないために何かを建立し、その姿を多くの人と共有しようと願う。ミュージアムがときに重く苦しい歴史を展示しようとするのはそのためで、ワシントンDCのホロコーストミュージアムや広島の平和記念資料館は人を厳粛な気持ちにさせる。
津波の被害はまた明日にでも起こるかもしれない。唐桑半島ビジターセンターが語り継ごうとする自然災害は、多くの人にとって遠い記憶となりながらも、確かに現在から未来へと続いている。だからこそ開館当時の最新技術で再現される津波の体験が、却って一時代に縛られてしまっているようにも思えた。災害という記憶は一時のVR技術には大きすぎるのだ。そのことは職員もよく理解しており、今後の展示内容の発展が楽しみでもある。
気仙沼は決してサメで町興しを願ったのではない。サメがよく捕獲されるから、それを利用してミュージアムに仕立てたに過ぎない。だからこそ逆に現在進行形の躍動が感じられる。市場という「動き」の大きさを、あえてすべて呑み込もうとせず一部に留めた度胸が嬉しかったのである。
大きい、というその言葉が胸に染み込んできたのは、定食を食べていた場所がかつて賑わいを見せたクジラの解体場の跡地だったからだ。クジラは頭だけでこの部屋の二倍くらいあったんだよ、と女将さんが話してくれた。おしかホエールランドのシアターで、私たちは「TOMORROW」と題された3D映画を観た。しかし具体的な明日の希望は描かれず、小綺麗な映像で物語は終わっていた。博物館の建設を請け負った企業にとって、鮎川の歴史は大きかったのだろうか。
次に来るときはホエールランド自身の鼓動をもっと聴いてみたいと願った。録音された音ではなく、生身の動きを。施設をはみ出すほどの大きさのリアルを。
(原稿用紙約2枚、826字)
2007年6月17日送信。連載第二回のコメント原稿だが、今回は連載そのものが掲載されていない。
仙台学5号 鎌先温泉原稿
午後二時に泉中央の事務所を車で出て、東北自動車道に乗った。一時間くらいで着きますよという編集者の言葉を計るように、ひとりで白石のインターチェンジまで走った。昨日の雨は去って初夏の陽射しがフロントガラスの向こうに満ちつつあり、いつも飛行機を操縦するときにかけているサングラスに眼鏡を変えてアクセルを踏んだ。きっとこの二日間は眩しくなるだろうと期待して持ってきたのだ。
白石インターを降りるとすぐに小さな看板を見つけた。それに従って右折すると、すぐに細く曲がる農道になった。木々の緑が急に近づいた。途中、不意に両翼に田圃が広がる長い一本道へと出た。その直線をゆっくりと通り抜けてゆくとき、反対側から数人の女子学生が歩いて来ているのに気づいた。擦れ違うとき、彼女たちの時間が、ふっと車内に残り、ハンドルから両腕へ伝わってから、ゆっくりと消えていった。
「最初の案内板で右折してしまったでしょう。そうすると農道を走ることになるんです。ふたつめの信号の案内板で曲がればわかりやすいんですが、やっぱり最初に見た看板で曲がるのが人情ですよね。ああいう交通案内板は、いちど立てたらよほどのことがない限り撤去できないらしいんです。それに昔は「鎌先温泉」じゃなくて「南蔵王」だった。そんな場所はないんだから書き換えてくれと頼んでも簡単にはいかない」
一條旅館の館主は代々「一平」という名を継ぐのだという。ロビーラウンジ「都路里」で初めてお会いした一平さんは、ホテルマンの落ち着きと気配り、包容力を持つ人だった。話をしているうちに一條さんが私よりひとつ年下だとわかって少し驚いた。
鎌先は不忘山の谷奧に位置する小さな温泉郷だ。橋の脇の空き地に車を止めると、町の中央の駐車場とそれを囲むように並ぶいくつかの旅館が手に取るように見渡せる。しかしすぐに、それだけが鎌先のすべてではないことに気づいた。一條旅館の案内に沿って右の路地を進むと急な傾斜になり、それを半ばまで上ったところで不意に大きな木造の建物が現れたのである。大正末期から昭和初期にかけてつくられたもので、ぐるりと周るガラスの桟と何本も延びる電線のコントラストがむしろモダンでさえある。坂道はこの建物へと続く空中の渡り廊下の下を潜り抜けて、一條旅館の玄関口まで続いていた。ちょうど出発してから一時間が経っていた。
「ぐるっと山のほうへ行ってみましょうか」
一條さんに促されて再び外へ出た。別館の脇を抜けるとすぐに山の斜面だ。葉の茂る岩盤からは絶えず水が湧き出しているのがわかる。さらには栃の木の傍らを通って降りてくる渓流が、道の下を抜けて鎌先の谷のほうへと流れていた。一條の本館は川の上に建てられているのだ。
別館の裏手には古い小屋が残っている。その先は山道だった。
「昔はこの小屋で湯花を乾燥させていたんです。以前の源泉から一輪車で汲んできて、機械で篩いにかける。すごく儲かるんですよね。ああ、そっちの神棚のようなところから清水が出ているでしょう。昔の鎌先の水です」
足元を見れば小さなカエルの姿がある。私たちはそこから山道を登った。一條さんは小枝を折って手に持ち、それで蜘蛛の巣を払いながら先頭を進む。
「小さい頃はよくここで遊んでいました。獣道があると入ってみてね、キノコが植わっていたり。カモシカがいます。お客さんも見ていますし、うちの娘たちも、源泉の洞窟の上にいるのを見てますよ。こちらから行かなければ襲ってきません」
杉林から竹林へと景色が変わってゆく。雲間から陽射しが注いで傾斜面におもしろい影をつくる。写真を撮った。
「タケノコがわんさか出てきます。これで二週間経っていない。出てきた瞬間からうわーって伸びていきますから」
一條さんが枝の先で、細く長く空へと伸び上がった姿を示す。茶色の真新しい皮を被っているのですぐに見分けられる。
二〇分ほどして広場へ出た。「天狗の相撲場」である。さらに上ると天狗山の山頂へと出た。松の枝振りの向こうに遠く山並みが見渡せた。
「もうちょっと日が翳ってくるといい風になるんです。朝も気持ちいい。小さい頃はさっきの相撲場でラジオ体操をしました。週にいっぺん、たいがいは下の駐車場でやるんですけれどたまにはって。上ってくるから、まずは深呼吸から始まる。朝六時半に始まるから、六時には上ってこないといけない。でも子供の頃はそれが楽しくてね。誰もいたずらなんかしない」
いまは消えてしまったが、かつて天狗の相撲場の場所には実際に土俵があったのだという。一條さんは無意識に枝の先で地面をなぞっていた。ちょうど昔あった土俵の淵を丸くなぞるように。
私たちは山を下りた。階段は急で、子供の身長ではきっとこの段差も大変だったろう。それでもきっと、子供の頃の一條さんは、それに不自由など感じなかったろう。
別館まで着くと一條さんの奥様とちょうど出会った。娘さんを車で送るところだった。奥様は以前にテレビの密着取材を受け、「老舗旅館を救え〜新米女将の挑戦〜」というタイトルで放送されたことがあるという。
本館と別館、そして木造別館と分かれる一條旅館の外観は、見渡す角度によってさまざまに印象が変化する。もしこの原稿が三〇枚以上のスペースをもらえるなら、ここを舞台にした短篇を書こうと私は思った。この一條旅館で近未来的な通信機器を使う若者の物語だ。わずかに歪んだ窓ガラスに遠い世界が映り、和室の中で操作する携帯電話には鮮やかな過去が起ち現れる。
湯神神社の元にある源泉を見学してから、私たちはロビーに戻った。一條さんは金庫から「鎌先」の名の由来となった鎌を持ってきてくれた。木箱の中に収められたそれは、古く赤錆びた小さな手鎌だ。一四九二年に樵夫が喉の渇きを覚えてこの鎌で岩窟を掘ったところ水が湧き出したといわれている。
さらに一條さんは、無造作に開封された封筒と一冊の本を机に置いた。封筒には几帳面な小さな字で「宮城県白石市鎌先温泉 一條旅館 御中」、下部には宮本常一の判があった。
民俗学者の宮本常一は講演録『イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む』(平凡社ライブラリー)の中で、イザベラ・バードの旅に触発されたのかふと思い出したようにこんな話を差し挟んでいる。
私が『日本の宿』を書いた時、宮城県の白石の西北にある鎌先温泉へ行ったのですが、そこの@一条@{ルビ:(ママ)}旅館でも同じで、実に親切にされて、二日間いたのですが、さてお金を払うとなると、すごく安いのです。そして「あなたのような方が泊まってくれるなら、ただでも良いんだ」というのです。
封書の手紙は、この鎌先温泉で宮本常一が宿泊者名簿を調査した際の礼状だった。一條さんが父親から譲られた風呂敷の中に入っていたという。宮本常一はこの手紙の中で、何度も丁寧に礼を述べている。そして中山高陽の紀行集に貴館のことが書かれてあったので同封するとあり、彼自身が筆記したその該当部分の原稿も収められていた。古い原稿用紙のところどころに赤鉛筆で印がつけられていて、そういった記号がたちまちこちらの心を過去へと繋いでゆく。
「七時にお食事を用意しようと思います。その前にお風呂に入っていただいて、あとは迷子にならない程度に、浴衣でちょっと歩いてみてはいかがですか。一〇分前にお部屋に連絡させていただきます。瀬名さん、お酒は飲まれますか」
あっ、と私は思った。嬉しくなってつい、はい何でもとつまらない返事をしてしまった。一條さんはそれをさらりと受け流し、笑顔でいった。
「ではせっかくですのでシャンパンを用意しましょう」
鎌先温泉は傷や打撲に効用のある湯治場として有名だった。山形で林業を営む人たちも、近くに赤湯温線があるのにこちらへ来ていたという。やっぱりいい伝えられてきているものがあるのでしょう、と一條さんはいった。
六月一一日月曜日。この日は仙台市内で熊谷達也さんと赤坂憲雄さんの公開対談がある。『仙台学』のスタッフは全員そちらへ行っているはずだ。だから私はひとりでこの一條旅館に泊まることを希望した。たったひとりで食事をして、そして原稿を書いて寝るのもいいと思っていた。
けれどもそうではなかった。その夜私は一條さんと共に夕食を楽しんだ。
坂を上がるとき最初に目に飛び込んできた古い建物は、いま「匠庵」として食事処になっている。松の廊下から少し歪んだ昔のガラス戸越しに鎌先の町が見下ろせる。そして小部屋の中はほんのりと淡く瀟洒な雰囲気に統一され、胡座ではなく椅子に座って懐石料理と向かい合う。よい演出だなと感じた。
「いまは坂道に車が列をつくってしまっていけない。山際から道を新しく造りたいんです。いずれは蔵をギャラリーにして、一條の歴史がわかるものを展示したい。その一階は素敵なバーに。「匠庵」で夕食を終えた後は、蔵で一杯二千円のカクテルを楽しんでいただく。鉄筋の新館も木造に建て直したいんです。少し歩いて、その不自由さを楽しんでいただきたい。全体を美術館のようにしてね」
長年一條で働いてきたという女性が料理を運んできてくれる。彼女の立ち振る舞いや説明を一條さんは館主として見つめていた。かつては長期治療のために家族を連れて一條へやって来る人もいたという。「私は料理ができます」「私は字を書くのが得意です」そのような言葉を聞き入れて、一條旅館は日当を払ってその一部を宿賃とした。そして彼らが連れてきた子たちを学校へ行かせたという。いまは治療目的の滞在者は少なくなってしまったが、それでも常連の人が一週間ほど泊まるという。そのような人たちのために一條旅館では毎日違った料理を出す。三〇日間ずっと違う夕食を出し続ける。
その日は湯葉の鍋だった。こうやって食べるんです、と一條さんは何も知らない私に手本を示す。一條さんと語り合いながら私はずっと、人をもてなす心について思いを巡らせていた。私は子供の頃からずっと小説が好きだった。もてなしの心に溢れた小説が好きだった。そして自分が書く側になって何年か経ったとき、私は自分の小説だけでなく、周りの環境をよりよく変えて読者をもてなしてゆく心も、作家にとって大切なのだと感じるようになった。
その心はほとんどの読者には届かないのだ。一冊の本がどのようにして世に出ようが、その本がおもしろければそれでよい。しかし本屋に入り、棚を見渡し、一冊を手に取って帰宅し、そして充足の吐息と共に読み終え巻末の案内を見て次の本へと進む、それらすべてがもてなしであるはずだ。同業者からSF作家とは決して呼ばれることのない私は、いま科学者の人たちから特任教授の職をいただき、SFと名のついたその肩書きで科学と小説について語り、そしてSFの「場」をつくる仕事を静かに与えられ続けている。
一條さんは鎌先温泉を盛り立てるためにこれまでやってきたことを語ってくれた。親から子への歴史、町をひとつにまとめてゆくつきあい、そして市や観光企業との交渉、もしかしたら私たちはそのようなことを考える年齢なのかもしれない。年月は同じ速さで過ぎてゆくが、ひとりひとりの時間には起伏がある。そのようなことを、ちょうど私や一條さんは考える時期なのかもしれない。
翌朝、再び露店風呂に入り、私は九時半に支度を終えてロビーに降りた。
朝から町内を飛び回っていた一條さんが、わざわざ見送りのために戻ってきてくれた。
「今日はこれからお仕事ですか」
「ええ。でもせっかくなので、少し車で回ってから帰ります」
「いいですね。遠刈田はすぐです。この季節、私はいつも車の窓を全開にするんです。とっても気持ちがいいんですよ」
その言葉が車に乗るときの気持ちをつくってくれた。走り出す瞬間から私は心地よかった。
飛行機で飛ぶとき窓は開けない。だが車なら開けることができる。
窓を全開にした。車内と身体を通り抜けてゆく。「風を見たことあるかね?」で始まる坂口尚の詩を私は思い出した。道沿いの草は午前の光を浴びて満ち、不忘山の向こうでは積雲が上っていた。
(以上、約4900字=13枚)
2007年7月2日送信。たいへん急かされた原稿である。『仙台学vol.5』では、私のインタビュー取材をまったく度外視して、編集者による単独原稿が掲載されている。
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