・独創性の尊重 アイデアは研究の命です。
・研究への誠実さ 自分を欺かない。
・論文はまごころをこめて
と、3項目が掲げられている。「東北大学研究推進審議会 平成19年4月」の発行。
しかしこれを眺めて思うのは、文芸の世界ではこれらの作法は全く通用しないばかりか、むしろこの作法を破らないと生き延びることができない、という現実だ。理系の大学を出た人間なら、この3つのことはだいたい身についていると思うけれど、この作法で小説を書こうとすると凄まじいジレンマに出会う。
まず読者の多くは、作者のアイデアの独創性など重視しない。多くの人は、面白ければいい、という人間らしい気持ちに忠実である。いや、アイデアの独創性を重視する読者もいるはずだが、重視しない読者の声に掻き消されて、出版社には無視されてしまう。
自分をうまく欺ける人の方が成功する。茂木健一郎さんをここで引き合いに出すのはいいかどうかわからないが、「クオリア」「アハ体験」「1回性の人生」などは、別に茂木さんがつくった言葉ではないし、茂木さんが初めて言い出したことでもない。でもあたかもそれらを自分で考えたかのように語ることで、茂木さんはポピュラリティを獲得した。読者は作家が自分の言葉で語っていると思い込みたいものなのだ。誰かの引用など読みたくないわけである。茂木さん自身はこのことについて何のコメントもしていない。だから少なくとも科学者としてウソはついていない。さて、茂木さんは自分を欺いているかどうか? それはわからないが、茂木さんはペルソナを使い分けていると思う。そして少なくとも一部の読者を誤解させているとは思う。
私はある時期から小説の巻末に参考文献一覧をつけるのをやめたが、これは読者や評論家から強い批判があったためだ。「文献一覧を載せなければ裁判で負けるほど、この本は他の著書からぱくっているに違いない」と邪推されるのである。研究において誠実であることを示す行為は、他の社会にとっては悪事を覆い隠す兆候とみなされる。
そして、まごころをこめない本のほうが売れてしまう現実がある。自分で原稿を書くのではなく、適当に編集者の前でしゃべり、それを文章に起こしてもらう。そういうタイプの本のほうが売れる。科学者も、このようなつくりの本を受け容れてしまう。
最近思うのだが、科学者もアウトリーチ活動が大切、といわれるようになってきたけれど、たぶんまだ多くの科学者は論文を書くときとマスメディアで語るときで「研究者の作法」を変えていて、そのことに全く疑問を感じていないんだと思う。論文は大切だけれど、まあテレビの取材は適当に学生に任せておけばいいよね、忙しいし、という感じになってしまっている。それが「不作法」であることを、科学者はいまどのくらい自覚しているだろう。
しかし自覚したとしても、「作法」を守っていたら確実にメディア業界では飢えて死ぬのである。
もちろん、こういうパンフレットで基本を周知させることも大切だろうけれど、捏造の問題は科学業界の中だけに閉じたルールの問題ではなくて、外部と接触するときのルールのあり方であると思うのだ。『あるある大辞典』だって、取材された研究者個々人がきちんと自衛していれば防げた部分がいっぱいある。
このパンフレットを文芸編集者の前に差し出して、鼻で笑われることのない社会をつくってゆくには、どうしたらいいんだろうか。
私にはまだ解答がない。
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