ホームページはこちらです。→瀬名秀明の博物館
瀬名秀明がゆく!東北大学機械系 *毎週金曜日更新
Science Pot 中学生と東大大学院生が科学を一緒に楽しむためのサイト
瀬名秀明の本棚β *著作一覧はこちら
瀬名秀明の課外ゼミ[flight]+東北大学キャンパス散歩

2006年11月24日

〈境界知〉1

『境界知のダイナミズム』がどんな内容なのかを示すために、冒頭部分をここに掲載しておきたいと思う(校正前の原稿なので、書籍版とは若干異なっている可能性もある)。
 おそらくこの願いは叶わないだろうし、他のふたりの共著者とは何の関係もない個人的な希望に過ぎないのだが、ぜひこの本はSFファンの人に読んでもらいたいと思う。特に、瀬名秀明の小説に対して違和感を持っている人たちに。
 なぜ瀬名の小説に違和感を持つのか。あなたの持つその違和感こそが、本当に人間らしい、優れた知のあり方なのだ、ということを私は伝えたいと思っている。たぶんそれは難しいだろう。このような考え方は、従来のSFの価値観とまったく相容れないことだからだ。
 私はこの本を書いたことで、SFというものに対して、ようやくひとつの意見表明ができたと考えている。おそらくは無視されるだろう。そして無視するという能力もまた、人間の素晴らしい知のあり方なのである。無視という行為を私は決して否定しない。だがさらに素晴らしいのは、人間の知がそれだけに留まらないということだ。
 この本は私にとっての「シャドウ・ライン」となったが、たとえひとりでもいい、誰かにとっての新たな心の門出となり得たら嬉しい。


序章 〈境界知〉を見出すまで

●どうしてそんな気分になったのか、ちっとも理由はわからない
 翻訳家の宮脇孝雄が英語教材会社アルクのPR誌で、未訳の海外ペーパーバックを毎月取り上げ、その一部を原文で抜き出し試訳と共に紹介するというエッセイを連載している。数年前まで私(瀬名)は宮脇の連載だけを目当てにこの雑誌を定期購読していた。
 その中で特に印象深かった回がある。アメリカの作家ダン・シモンズの長篇小説『サマー・オブ・ナイト』(扶桑社ミステリー)を取り上げたときのものだ。ページに添えられていた恩田和幸の挿画と共に、ずっと私の心に残っていた。シモンズはインドのカルカッタを舞台にしたホラー長篇『カーリーの歌』やSFのモチーフを総ざらえする《ハイペリオン》シリーズなどのジャンル・エンターテインメント小説で実力を発揮し続けている作家だが、当時まだ日本ではわずかな数の作品しか邦訳されておらず、海外小説ファンの間で名を知られるのみの存在だった。そのシモンズの新作を、宮脇はエッセイでいちはやく取り上げたのだ。
『サマー・オブ・ナイト』の舞台は一九六〇年のイリノイ州の田舎町。まだ輝きを失わなかった時代のアメリカで、小学生生活最後の夏休みを過ごす少年たちが、学校に巣くった怪異の正体と戦うという物語だ。青春ホラー小説の定番といっていい筋立てであり、スティーヴン・キングやディーン・クーンツをはじめとして、アメリカの著名なホラー作家なら自分の子供時代の想い出と重ね合わせつつ、一度はこの手の小説を書いている。宮脇がエッセイの中で引用・試訳したのは死体が墓場から蘇って少年の前に姿を現す派手な場面だったが、すぐに宮脇は次のようにフォローしていた。

 もちろん、こんな気味の悪い描写ばかり続くわけではなく、ダン・シモンズは、子どものころの夏休みの楽しさや悲哀も丁寧に描き込んでいる。例えば、子どもたちが集まって野球をするシーンがある。片方のチームのピッチャーは女の子で、いつもは男まさりだったのに、一一歳になったその夏は妙に勝手が違う。胸が大きくなって(たぶん初潮もあり)、男の子たちと遊ぶのにちぐはぐな感じを覚えているのだ。男の子たちも、それに気がついて、野球をしながら、ふと黙り込んでしまう。
[宮脇孝雄「今月のマスターピース5 Summer of Night」、「CAT」1992年8月号*]

 このエッセイを読んで、私は無性に『サマー・オブ・ナイト』が読みたくなった。そして丸善へ出向いて原書のペーパーバックを購入したことを覚えている。結局その本を最後まで読み通すことはなかったが(なにしろ分厚かったので)、邦訳がついに出版されたときにはすぐさま求め、一気に読み切った。
 実際のシーンを少し詳しく紹介してみよう。この時点ですでに少年たちは幾つかの奇怪な予兆を体験している。しかしそういったことは口に出さず、彼らはいままでの日常を取り戻そうとするかのように、摂氏三〇度以上の猛暑の中で、ただ草野球に熱中するのだ。彼らは自分たちの生活に少しずつ大人の世界が入り込んできていることを知っている。最初のチーム編成は、町の南側に住む金持ちの子と、北側の中低級層の子に分かれてしまった。彼らは一試合を終えるとメンバーを入れ替えて、また野球を続ける。しかしやがて何人か抜けてゆき、男女混成だった遊び仲間も、やがて女の子はリトル・リーグ級のピッチャー、ドナ・ルーひとりだけになる。
 何度もメンバーを入れ替えたので、これでは誰がどちらのチームなのかわからない、とひとりがいい出し、一方のチームはシャツを脱ごうということになる。次々とメンバーは脱いでゆくのだが、やがてドナ・ルーの番になり、そこで主人公の少年デイルは突然気づくのだ。去年の夏まで彼女は胸も平らで、ぴったりとしたTシャツを着ていたのに、今年はゆったりとしたシャツを着て、急に乳房も目立つようになっていたのだということに。
 ドナ・ルーが目に涙を浮かべ、気まずい雰囲気が流れる。そして彼女は一言も発することなく、その場から立ち去ってしまうのである。デイルにとって、それは世界が変わってしまう瞬間だった。

 ローレンスは事情がよくわからないまま、けげんな顔でみんなを見わたす。「試合は終わり?」
 デイルの横にいたマイクが立ちあがってTシャツを着た。「そうだよ」そういう声は疲れたような嫌悪に満ちている。「もう終わったんだ」自分のミットとバットとボールをまとめると、彼はデイルの家の裏庭のフェンスのほうへ消えて行った。
 デイルは席を立てなかった。こんな気分は初めてだ。興奮と悲しみがないまぜになったみたいで、息苦しいような妙な感情だった。と同時に、なにか、悔やんでもとりかえしのつかない重大なことが起きたことを彼は感じていた──ローレンスのみならず、デイルも直接に手をくだしたわけではない──ただ、それは秋がきたときのように、ものごとの終幕を感じさせるものだ。八月になって、オールド・セトラーズ@共進会@{ルビ:フェア}も幕をおろして移動してゆくと、そのあとにはまたぞろ恐ろしい新学期しかないという、あの感じとよく似ている。デイルはちょっぴり笑いだしたいような、それでいて手放しで泣きたいような気分になった。しかも、どうしてそんな気分になったのか、ちっとも理由はわからないのだ。[田中一江訳]

 いまでも私はシモンズの小説の中で『サマー・オブ・ナイト』がいちばん好きだ。しかしこの小説についてまず思い出すのは、ストーリーでもなければキャラクターでもない、宮脇が紹介したこの野球のシーンなのである。たぶん私は『サマー・オブ・ナイト』を読む前に、宮脇のエッセイによって心を奪われていたのだろう。
 本書のテーマは〈境界知〉である。これは私たち筆者三人が頭を寄せ合ってつくった、新しい言葉だ。いくらかの先例はあるだろうが、ほとんど馴染みのない言葉だと思う。これからこの〈境界知〉が何であるかを示し、論じてゆこう。本書の冒頭を小説の紹介から始めたのにもわけがある。〈境界知〉が私たちの中で起ち現れる瞬間の鮮やかな感覚を、ほんの数例でもいい、小説作品を通してあらかじめ読者の皆様と共有しておきたいと思ったのだ。
『サマー・オブ・ナイト』で書かれているこの喪失感の正体は何なのだろうか。周囲の景色は何も変わっていない。一緒に野球をしている仲間たちも、足で踏みしめているグラウンドも、空の青さも、昨日までと何も変わりはしない。しかし主人公はそれまで感じなかった喪失感を確かに覚え、何もわからずに暮らしていたいままでとはすべてが変わってしまったのだと悟っている。「ちょっぴり笑いだしたいような、それでいて手放しで泣きたいような気分」だとデイルは感じているが、それでも「どうしてそんな気分になったのか、ちっとも理由はわからない」。理由がわからないのに、デイルは確かに以前と何かが違ってしまったと感じている。彼の心の中に「見えない境界」が生じたのである。
 昨日までとは何かが決定的に変わってしまった、といった喪失感を、私たちは日常の中で経験することがある。昭和天皇崩御の日のようにじわじわと後から心を包み込んでくる時代の終焉感覚もあれば、9・11のテロをテレビの前で目の当たりにした瞬間のように、否応なく両肩をぐいと掴まれ、抗しようのない一直線のレールに座らされる暴力的感覚もあるだろう。脇道へ逃げる甘えなど赦されず、もはやある方向へ持っていかれるしかないという怖れと諦念である。『サマー・オブ・ナイト』で記された感覚には、確かにひとつの時代の終焉に対する喪失も含まれているだろう。作者のシモンズはこの物語を一九六〇年の夏に設定することで、輝いていたあのアメリカへの喪失感を読者に連想させようとしている。小説の随所に挿入されたジョン・F・ケネディの選挙戦の様子は、若い政治家へ希望を託したアメリカの精神と、その後の泥沼化したベトナム戦争を想起させずにはおかない。つまり少年たちの予兆と喪失感は、アメリカがおかしくなってゆく予兆と、古き良き時代への喪失感でもある。
 少年たちの喪失感は、ドナ・ルーの性徴と子供社会のルールとの衝突によってもたらされる。それまで仲間だと思っていたドナ・ルーが、いつの間にか女性として成長しており、それが否応なしに顕在化してしまったということだ。デイルはドナ・ルーと自分との間に、つい先程までは決して感じることのなかった境界を見出している。自分と彼女は決定的に何かが違う存在なのだという事実を知り、大人の社会はその違いを曖昧にはさせないのだと知り、その重さを受け止めている。彼は小学六年生のその日、見えない境界を見出したことで、もう夏を過ぎれば自分も大人の一員となり、決して後へは戻れないのだと悟ったのである。
 これはダン・シモンズが描いた架空の状況だが、おそらくは類似した喪失感を、多くの人は経験しているのではないか。例えば気心の知れた仲間と遊んでいるとき、ふとそのうちのひとりが真顔に戻り、「俺、大学に行こうと思っている。明日から勉強しないといけない」と呟くような瞬間である。
 それを聞いた他の者たちは、昨日までと何かが完全に変わってしまったことに気づくだろう。もはや昨日には戻れない。仲間だと思っていた者が、実は大学に進学するような奴だったのだと知った瞬間、それまで一度として感じたことのなかった垣根が突然、彼らの間に生ずるのである。日常だと思っていた範囲内に、突然異質な感覚が入り込むのだ。宮脇孝雄がまさに「妙に勝手が違う」「ちぐはぐな感じ」と書いたように、それはある種の違和感なのである。彼らはこのやるせないような違和感を見出してしまったとき、日常と違和を分け隔てる「見えない境界」を意識することになる。その感覚は、もはやごまかすことができないのである。
 このように、違和感の中には私たちの境界が潜んでいる。だが違和感を覚えることそのものによって、私たち自身はそれまでの日常とその瞬間の自分の間に境界を見出しているともいえるだろう。信頼していた日常があるからこそ、私たちはその中にふと「違和」を感じる。それまで信じていた日常の中から、何か違ったものが見えてしまうことで、私たちは新しい世界観へと足を踏み入れる。そこに違和や喪失という複雑な感情が生まれる。
 日常と違和を隔てる境界は、自覚的に線引きできる場合もあるだろうが、『サマー・オブ・ナイト』のデイルが「ちっとも理由はわからない」といったように、もやもやとしてうまく規定できない場合も多いに違いない。しかし不思議だ。なぜ私たちは規定できないのだろうか。おそらく「違和」を感じるには私たちの中に日常という〈常識〉の感覚が前提として必要であり、その〈常識〉の範囲をきっちりと自覚できないことが多いからだろう。だからこそ「違和」は身を預け切っていた日常の中に不意に現れる。それはときとしてとても強く、鮮やかで、心にいつまでも残り忘れることのできないもどかしさである。
 考えてみると私たちは、うまく言葉では表現できないこの「違和」の感覚に、多くのことを負っているのではないか。私たちは人とコミュニケートし、社会の中で暮らし、生きて死んでゆく中で、無数の「違和」の感覚と出逢っているに違いない。しかし私たちはデイルと同じく、なぜそのような気持ちが生じるのか知らずにいる。知らずにいるのに、私たちはさまざまな違和の感覚と共に何かを悟り、感じ、あるいは無意識のうちに判断して、それを行動へと移し替えてゆく。
 一般論でいえば、もともとこの違和感は、動物が身の安全を察知するために獲得した警告システムのひとつなのだろう。しかしその感覚は人間にとって、単なる注意警告以上の豊かな意味を持っているように思われる。私たちは普段、世界を信じて世界を忘れている。違和という感覚は、信じているが故に忘れていたその世界を再び私たちに思い起こさせる。違和とは私たちの感覚を日常という世界に結びつけ、そして切り離すものだ。
 違和という感覚を突き詰めることによって、私たち人間が持つ「知」の働きを新たな側面から捉え、科学の俎上に乗せることはできないだろうか。
posted by 瀬名秀明 at 14:40 | TrackBack(1) | ちょっとしたお知らせ

2006年11月06日

残酷な奇跡の時代

『境界知のダイナミズム』のゲラ校正終了。疲れた……。燃え尽きた……。
言及される作家や小説
ダン・シモンズ『サマー・オブ・ナイト』
横道仁志「『鳥姫伝』評論 断絶に架かる一本の橋」
G・K・チェスタトン「おとぎの国の倫理学」
スタニスワフ・レム『ソラリス』
テッド・チャン「あなたの人生の物語」
アントン・チェーホフ「退屈な話」
ジョウゼフ・コンラッド『シャドウ・ライン』
アルベール・カミュ『異邦人』
J・R・R・トールキン『指輪物語』
うーむ節操がない。これらに脳科学や言語進化学や文化人類学や社会心理学や認知ロボティクスの話が絡む。俺のノンフィクション作品の中ではダントツで面白いと思うのだけれど、どれだけ売れるかさっぱりわからない。そもそも文芸編集者に読んでもらえなさそう。
ところでレムの『ソラリス』のラスト一文が、旧来のハヤカワ版と新しい国書刊行会版でかなり違うことは有名な話。今回の原稿では、国書刊行会版で押し通したが、なぜかというとハヤカワ版から引用すると論旨が成り立たなくなってしまうから。
ロシア語から翻訳されたハヤカワ版のラストは次の通り。「しかし、私は、驚くべき奇蹟の時代はまだ永遠に過去のものとなってしまったわけではない、ということを固く信じていた」
ポーランド語からの国書刊行会版はこうなる。「それでも、残酷な奇跡の時代が過ぎ去ったわけではないという信念を、私は揺るぎなく持ち続けていたのだ」
では英語版は? と思ってAmazonで立ち読みしてみた。「I persisted in the faith that the time of cruel miracles was not past.」
ふーむ、persistやfaithという語感からすると、やはり信念が持続する感じが入っていて、国書版の方が近い。
しかしレムって、ロボットのことをどう考えていたのかよくわからん。いや、小説からだけならわかるのだが、トータルでどう考えていたのだろう。『技術大全』や『対話』を読まないと、レムのロボット観について何も有意義なことは語れそうにない気がする。というわけでそれらの原著を買ってあるのだが、俺にはとても読めないのであった。
いや、こんなことを書いている場合ではなく、まだ他にも残されたことが……。
posted by 瀬名秀明 at 00:05 | TrackBack(0) | 読んで書く、書いて読む

2006年11月01日

贈る物語 Wonder



【新刊】瀬名秀明編『贈る物語 Wonder すこしふしぎの驚きをあなたに』/光文社文庫/2006.11.20/ISBN4-334-74157-6/本体686円/初刷30,000部 amazon】【bk1】【広告

目次
はじめに
第一章 愛の驚き
 夏の葬列 山川方夫
 愛の手紙 ジャック・フィニイ/福島正実訳
 窓鴉 式貴士 画=エドワール・マネ/アラン・ジェイムズ・ロビンスン/ギュスターヴ・ドレ
 雨傘 川端康成
第二章 みじかい驚き
 よけいなものが 井上雅彦
 蟻の行列 北野勇作 イラスト=森川弘子
 絵の贈り物 画=福田隆義
  老年 藤沢周平
  夜のリフレーン 皆川博子
  草原の人形 眉村卓
  渚の風景 佐藤愛子
  ルーツ 河野典生
  返書 赤江瀑
 雪に願いを 岡崎二郎
第三章 おかしな驚き
 ニュースおじさん 大場惑
 江戸宙灼熱繰言 いとうせいこう
第四章 こわい驚き
 鏡地獄 江戸川乱歩 画=片山健
 托卵 平山夢明
第五章 未来の驚き、「私」の驚き
 戦士たち 光瀬龍
 ひとつの装置 星新一
 太陽系最後の日 アーサー・C・クラーク/宇野利泰訳
おわりに
文庫版あとがき

 少し長めの「文庫版あとがき」を追加。このあとがきは気に入っている。
 ところで、第二章で説明した「ショート・ショート」という形式の成り立ちについて。昔の雑誌は、前半に上質な紙を使い、後半にやや粗悪な紙を使っていた。小説が掲載されるとき、冒頭部分は前半のほうに掲載されたけれど、そこから「○○ページへ続く」と書かれていて、後半は雑誌の最後のほうに掲載されていた。でも物語がいいところで中断されるので興が削がれる。だからいっそのこと、2、3ページで終わる短い話を掲載してしまえ、と「コスモポリタン」誌が考えたところ企画は大ヒット。他誌でも真似をするようになり、ショート・ショートの形式が定着した……ということなのだけれど、これを最初にやった作家が誰なのかを書くのを忘れていた。実はこれ、サマセット・モームなのだね。俺も最近まで知らなかった。このときのモームのショート・ショートは、『コスモポリタンズ』(ちくま文庫)にまとめられている。
posted by 瀬名秀明 at 15:03 | TrackBack(0) | 新刊